what art is by Arthur C. Danto
アーサー・ダントを読む 【PDF版はこちら】
黒岩恭介
はじめに 第一章「目覚めて見る夢」 第二章「修復と意味」 第三章「哲学とアートにおける身体」
第四章「論争の終わり:絵画と写真の<パラゴーネ>」 第五章「カントとアート作品」 第六章「美学の将来」 おわりに
はじめに
ダントという美術批評家の存在が、なんとなく気にかかっていた。ウォーホルの『ブリロ・ボックス』を哲学的に論じたことで有名であることくらいは、なにげに知っていたが、彼の書いたテキストに直にあたって、読み込むことはしていなかった。ダントが亡くなったこともあり、一冊くらいはきちんと読んでおこうかと、ネットで検索してみると、『what art is アートであること』というダントが生前最後に刊行した本を見つけた。アートとは何かという興味を引くタイトルである。紙媒体と電子媒体の両方で販売されていた。それまで電子書籍を買ったことがなかったので、この機会に試しに買ってどんなものか知るのもいいかと思い、パソコン上で読める楽天のkoboから購入した。その時はアマゾンのキンドル版はまだ専用のタブレットが必要だったので、敬遠したのである。今はキンドルの無料アプリをインストールすれば、キンドル版もパソコン上で読むことができるようになっているので、選択肢が増えて、便利になった。
"what art is" をどのように訳すか、これは難しい。このような言い方を直訳すれば、「アートであるところのもの」といえば間違いではない。こういう訳し方は哲学書なんかによく見られる。疑問文にしてくれると、「アートとは何か」という意味なので、分かりやすい。しかしこのタイトルは疑問文ではないので、日本語でなんと言えばダントの思いに近いのだろう。意味としては、「アートの本質」あるいは「アートの実相」なのだろうが、わざわざこのような言い方をしているからには、日本語でも工夫が必要だろう。とりあえず、「アートであること」と訳しておく。ちなみに、ダントは一九六八年に『What philosophy is; a guide to the elements』という本を出版しているので、このような言い回しが好きなようである。
もう一つ厄介な言葉が "art" である。ふつう訳語としては「美術」と「芸術」という言葉が文脈に応じて使いわけられている。美術といえば、絵画や彫刻などの造形芸術一般を指すし、芸術といえば、美術以外の音楽や建築、文学など、その意味は広範に渡る。またアートには練習によって獲得される技術やスキル、テクニックを意味することもある。論争術、話術、護身術、製本技術など術に当たる部分がアートである。いちいち文脈に従って訳し分けるのも面倒なので、art はカタカナのアートで済ませることにする。
ところで著者 Danto のカタカナ表記であるが、今のところウィキペディアなど「ダントー」と音引きしているものの方が多いようである。しかし、イタリア・オペラのBel Canto はベルカントと表記されているし、同じく音楽用語で rondo や tango もふつうカタカナではロンド、タンゴと音引きなしで表記される。スペインの独裁者であったFrancisco Franco はフランシスコ・フランコと同様に表記される。Danto もダントとした方が、少なくとも私にとっては自然である。音引きすると「暖冬」を連想してしまいどうも具合が悪い。したがってこのエッセイではダントと表記する。今後、この表記が一般化することを願っている。
それはさておき、この『アートであること』はいざ読み始めると、実に面白い。グリーンバーグも面白かったが、それ以上にダントの文章には引き込まれた。この二人は、英語の美術批評としては双璧である。そのように断言できるほどたくさん文章を読んでいるわけではないので、実際そうであるかどうかは保証の限りではないけれども、直感的にそのように感じた。当たり前の話だが、ふたりとも、自分の理解していることを丁寧に、わかりやすく、論理的に、伝えている。文学的な教養も豊かで、メタファーも的確だ。要するに、頭のいい人間の文章なのである。そのようなわけで、読み飛ばすのがもったいなくて、日本語に直してみようと思った。翻訳に取り掛かると、あっという間に最後の頁までたどり着いた。こんな楽しい経験はロマン・オパルカの短いエッセイを訳して以来のことである。
ダントの『アートであること』の翻訳を完了し、こんなにアートについて考えさせてくれる良質な書物は、日本語で読めるようにして、広く日本の美術愛好家の手の届くところに置いておきたいものだ、と思った次第である。どこかで出版してもらいたいと考えていたところ、たまたま別件で、水声社の編集者、飛田陽子さんと打ち合わせがあったので、駄目元で持ちだしてみた。ラッキーにも、私の話に飛田さんは興味を持ってくれて、版権取得に動いてくれることになった。しかしながら、そううまくは事は運ばないもので、すでに人文書院が版権を取得していて、残念な結果になったと、しばらくしてから飛田さんから、メールが送られてきたのである。さっそく人文書院に問い合わせると、現在翻訳中だけれど、今年二〇一五年いっぱいには出版できるだろうということだった。ついでに翻訳者の名前を尋ねると、京都精華大学の先生だそうである。美術畑ではないようなことを言っていた。しかし、ダントのこの本が日本語で読めることになるのは、非常に喜ばしいことなので、出版が待ち遠しい。
こういう事情で私の訳で出版はできなくなったのだが、ダントを読んで近年になく読書の醍醐味を味わったので、その経験を何かの形として残したい気持ちが強くなってきた。それで、『アーサー・ダントを読む』というタイトルで、エッセイを書いてみる気になったのである。
ダントの最後の著書となった『what art is』は二〇一三年、イエール大学出版から刊行された。リディア・ゴア Lydia Goehr という女性に捧げられている。彼女はコロンビア大学の哲学の教授で、主に音楽哲学の著作がある。また彼女はプリンストン・クラシクスとして一九九七年に出版されたダントの『AFTER THE END OF ART アートの終焉以後』に前言を書いている。ところで、なぜダントがこの本を彼女に捧げたかといえば、この本の最後に置かれた謝辞によれば、
「『論争の終わり:絵画と写真の〈パラゴーネ〉』というタイトルの章は、ニューヨークのメトロポリタン美術館での講演会で発表した。企画はリディア・ゴアである。ピーター・ゲイのモダニズムに関する著書に写真についての記述がないことについて、私はコロンビア大学でいくつかの批評を行なったが、それがこのテキストの下敷きとなっている。私が本書をリディアに捧げた理由は、私たち相互の哲学的関心 ― アートの哲学と歴史の哲学 ― および、私たちの長きにわたる友情、彼女のウィットと寛容、そして、おそらく私たちが二人ともやぎ座であるという事実のためである」(p.162) とある。
本書は六章立てである。つまり、第一章「目覚めて見る夢」、第二章「修復と意味」、第三章「哲学とアートにおける身体」、第四章「論争の終わり:絵画と写真の〈パラゴーネ〉」、第五章「カントとアート作品」、第六章「美学の将来」という構成であり、第一章の前に「序文」、第六章の後に「参考文献」「謝辞」「索引」がそれぞれ置かれている。各章はどれも読み応えがあり、アートを考える上で示唆に富みまくっているので、各章からその白眉(少し大げさか)と思われるところを取り上げて、順次解説していきたい。
まずは序文である。冒頭、ダントはプラトンの絵画=ミメーシス論を紹介する。プラトンが『国家』のなかで論じた、えっ!と驚くようなアーティスト不要論である。論点はこうである。現実世界は、プラトンのイデア論に従えば、イデアの影である。現実はイデアという理念世界からいえば二つ目の存在である。現実に存在するものはイデアという真実在を十全には備えることのできない欠陥形態なのである。例えば、現実にある机は、机というイデアを参照して製作されたイデアの影である。つまり一〇〇種類の違った机があるとして、それらはひとつの机のイデアから派生したもので、イデアそのものではない。だから個々の机は
「真実在にくらべれば、何かぼんやりとした存在にすぎない」(藤沢令夫訳プラトン『国家』上下巻、岩波文庫、以下プラトンの引用はすべて同書から 下巻 p.306)のである。
イデアの一部は現実化されているけれども、イデアとイコールではない。絵画となると、絵画はそのイデアの影である現実を模写したものにすぎないから、影の影という芳しからぬ位置を与えられる。絵画にとどまらず、造形芸術も文芸も、ホメロスでさえ同様の存在で、存在の価値から言えば、イデアから数えて三番目の地位しか与えられない。そのうえプラトンはアーティストの役に立たない、その役に立たなさぶりをこれでもかと説く。机を製作する職人は、机とは何かという机のイデアを知っていなければ机を作ることはできない。それに対して、画家は机のイデアを知らなくともそれを描くことができる。つまり外観を、見た目を、うわべを、しかも限定された視点からなぞることができれば、机とは何かという机の本質を知らなくても、描くことが可能であると指摘するのである。
「真似る人は、彼が真似て描写するその当のものについて、いうに足るほどの知識は何ももち合わせていないのであって、要するに〈真似ごと〉とは、ひとつの遊びごとにほかならず、まじめな仕事などではない」(下巻 pp.322, 323)
というのが結論である。
プラトンの絵画攻撃はそれにとどまらない。絵画で凹凸感、立体感を生み出すイリュージョニズムについて、プラトンは容赦しない。それらは錯覚を利用するもので、手品みたいなものであるという。それはわれわれの理知的な部分の支配を逃れ、理知に対立する低劣な部分のひとつだと断定し、次のような結論を下す。
「つまり、絵画および一般に真似の術は真理から遠くはなれたところに自分の作品を作り上げるというだけでなく、他方ではわれわれの内の、思慮(知)から遠く離れた部分と交わるものであり、それも何ひとつ健全でも真実でもない目的のために交わる仲間であり友である」(下巻 p.325)。
そしてこの同じ論法を詩にも適用し、ホメロスもまたその存在価値を否定される。
だからプラトンの理想とする国家には、アーティストのいるべき場所はない。机を製作する職人は社会には必要不可欠だが、絵を描いたり、彫刻を作ったり、詩を書いたりする影の影の制作者は、つまり真似しんぼはプラトンの国家には居場所がないわけである。そのようなわれわれの魂の劣った部分を楽しませ、人々を善に導くことの妨げとなるアートの制作者は国家から出て行って欲しいというわけである。
『国家』には、その他にも、われわれの価値観からずいぶんかけ離れた議論が展開されている。ダントとは関係のない話だが、例えば、プラトンは妻たちと子供たちは共有にして、子供たちの養育は共有で行うべきだと主張する。
「これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと」(上巻 p.361)。
そして優れた男女が交わって優れた子供を生むようにすべきだし、その反対のことがあってはならないとか、戦争で功績のあった若者には、婦人と共寝の機会を多く持たせ、良き子供をたくさん生むようにさせる。また劣った人間の子供や、優れた人間の子供でも欠陥があるような場合は、
「これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」(上巻 p.369)
とおだやかでない。妻たちはそもそも共有なので、家庭という概念はない。お乳が張れば母たちは隔離された養育施設に行って、誰の子供か知れない赤ん坊にお乳を与えよというのである。プラトンの国家では、結婚適齢期が決められ、支配者の許可、つまり法の承認を受けて、優秀な男女の結婚が許され、子供を生むことができる。面白いことに、適齢期を過ぎた男女は自由に恋愛して良いという。しかし子供はご法度である。もし妊娠したら、処置しなければならないとされる。もしこのような制度が現実にあったとして、国を守る軍人やエリートの混乱、仲間割れを避けるためには、一部の支配者だけがこの秘密を知り、一般には悟られないように、巧妙に行わなければならないとされる。まるでドストエフスキーの大審問官である。このような空恐ろしい話をプラトンは理想の国家を作るために、ソクラテスの口を借りて、理詰めで推し進める。
プラトンがアート模倣説をどのような意図で唱えたかは別にして、アートとは模倣であるという、アートの定義はプラトンの時代から、二〇世紀初頭のキュビスムまでは通用していたと、ダントは指摘する。ところが、デュシャンが登場し、模倣ではなく現物その物をアートとして提出し、美までもアートから取り除いてしまった。また決定的だったのは抽象の出現で、「アート=模倣」説はもはやアートの定義として通用しなくなった。現状はどうかといえば、ますますこの傾向は度を増していて、あらゆるものがアートとして存在する可能性がある。いわば何でもありの状況を呈している。だからアートを定義できる共通概念はない、と結論付ける学者もいる。いわくアートは「オープン・コンセプト」である、というわけである。ダントは哲学者として、オープン・コンセプトを認めない。アートは定義可能でなければならないと主張する。アートはオープンではなく「クローズドな概念でなければならない」(p.xii)。
そのために、各章にわたって、デュシャンやウォーホル、ダヴィッドやピエロ・デラ・フランチェスカ、そしてミケランジェロの作品を論じながら、またデカルトやカント、ヘーゲルの哲学を援用しながら、ダントはアートの定義を追求していく。
第一章
目覚めて見る夢
はじめに、オープン・コンセプトについてもっと詳しく説明しておこう。ダントによれば、アメリカの美学者、モリス・ウィーツ【Morris Weitz 1916-81】が一九五六年に「美学における理論の役割」という論考のなかで唱えた、「アート」は「開かれたコンセプト open concept」である、という説。その意味するところは、文芸を含めて、個々のアート作品の具体的な有り様は千差万別であり、それらに共通して当てはまる概念は存在しないという。ダントはその考え方は現今の百科全書的総合美術博物館に展示されている多岐にわたるさまざまなアート作品を思い浮かべれば、直観的に、なるほどと思われるかもしれないという。
しかし、ダントの哲学者としての主張はこうである。
「他の人間はいざ知らず、哲学者が、共通する視覚的特性が見られないからと言って、アートはオープン・コンセプト(開かれた概念)であるなどと結論付けることは、問題である。彼らは見ることを止めたのではないかと思う。というのは私は少なくとも、アート作品に固有な二つの特性を知っているからである。そしてこれらは、したがって、アートの定義に属するのである。やらなければならないことは、少しばかり周りを探して、アート作品が共通して持っている特性を発見することである。ウィトゲンシュタインの時代、哲学者たちは、どのような創作物がアート作品であるかを識別できることに、大きな信頼を寄せていた。それらを識別するとは、現実的に、それらから逃げ出すことではまったくない。あなた方はそれらをアート作品として取り組まなければいけない。『美術批評家』がやるように、それらを扱わなければならない。あなた方は開かれた概念(オープン・コンセプト)よりもむしろ、開かれた精神を持たなければいけない」(p.35)
と、ダントは同僚の哲学者に対して、手厳しい。
この引用のなかに出てくる、ダントが知っているというアートの二つの特性とは、ひとつはこの章のタイトルである「目覚めて見る夢」のことであり、もうひとつは「アート作品は〈受肉された意味〉である」(p.37)というアートの定義である。ここでいきなり本題に、すなわち、アートの本質論に突入したわけであるが、これを理解するためには、以下この結論に至る経緯を詳しく見ていかなければならない。
ところでその前に、何が、どういう作品がアートであるのか、それを指名するのは〈アート・ワールド〉であるという理論について、ダントが批判しているので、それを見ておこう。
「六〇年代、哲学者のジョージ・ディッキー【George Dickie 1926- イリノイ大学名誉教授。美学、芸術哲学、18世紀趣味論を研究した】はアートの「制度論」として知られる理論を展開した」(p.33)。
ディッキーの〈アート・ワールド〉は
「一種の社会的ネットワークで、それは学芸員や、コレクター、美術批評家、(もちろん)アーティスト、そして何らかの意味でアートと関係した生活をしているその他の人たちから成っている」(p.33)。
そういったアート関係者、〈アート・ワールド〉の構成員が、これはアートであると宣言すれば、それはアートということになる。このアートの定義に対して、ダントは疑義を唱える。ひとつの反証を上げて、ディッキーの制度論の難しさを炙りだす。カナダの税関検査官が、デュシャンのレディメイドが彫刻かどうかを確認するために、カナダ国立美術館のトップに相談したところ、〈アート・ワールド〉の一員であるこの専門家は、それは彫刻ではないと断言したというのである。
事情は詳しくは書いていないが、一般論として、美術館の館長の専門がたとえば、ルネサンス彫刻の分野だったとすれば、アートのあり方そのものを問うような、常識に挑戦する作品に対して、正直に、「これはアートではない」と応答するのも、もっともなことである。〈アート・ワールド〉の構成員は多種多様であるから、アートの見方も多様であろう。しかし、アートを否定する意見ではなく、肯定する場合のみ、この制度論が適用されるとすれば、いいのかもしれない。
ことのついでに、ダントのいう大文字表記(日本語ではカッコで括った表記)の〈アート・ワールド〉は、上述のディッキーが制度論で用いた〈アート・ワールド〉とは概念が違うので、ここではっきりと指摘しておきたい。ダントの場合、〈アート・ワールド〉とは世界中のアート作品すべてからなる世界である。さまざまな文化、さまざまな地域、さまざまな時代に制作されたアート作品すべての集合体のことを、ダントは〈アート・ワールド〉と呼んでいる。
さて、ダントをアートの再定義へと駆り立てたアート作品、それは言わずと知れたウォーホルの『ブリロ・ボックス』である。ダントはアート模倣説が破綻した以後の、新たなアートの定義を検討する上で、この『ブリロ・ボックス』が最大の貢献を果たしたと、主張する。しかし考えてみると、アート模倣説があるとすれば、その最たる作品であるウォーホルの『ブリロ・ボックス』が、アート模倣説を超えるアートの定義に、最大限寄与したというのは、皮肉といえば皮肉である。
『ブリロ・ボックス』は一九六四年、ニューヨークのステイブル・ギャラリーで発表された。それは洗剤を含んだ金属たわし、ブリロ・パッド24個を入れるための段ボール箱、すなわちブリロ・ボックスをそっくりそのまま模倣して制作した彫刻作品であった。ウォーホルは最初は、ダンボールをそのまま使用して制作を試みたようだが、結局、ダンボールは柔らかくエッジがたたないので、合板を使用することにしたという。このウォーホルの作品『ブリロ・ボックス』は、アート模倣説に立てば、究極の模倣である。なぜなら大きさも同じ、図柄も写真製版によるステンシルで刷っているので、オリジナルと寸分変わらないからである。ただ素材としてウォーホルの『ボックス』は木製である点だけがオリジナルと相違しているのである。しかしその相違は、眼で見て確認することはできない。見た目はそっくりなのである。ダントは、現実の商品ボックスと、アートとして提示された『ボックス』と、視覚的に同一だとすれば、もう万事休すであると、まずは思ったようである。しかし、後年、新たな発見をする。それを端的に示す言葉は、
「眼に見える相違点がないとしたら、〈眼に見えない〉相違点がなければならない」(p.37)
という考え方であり、パースペクティヴの変更である。
その結果、先述の「アート作品は〈受肉された意味〉である」という定義がくだされた。受肉という、日本語ではあまり使われない言葉を用いて訳したが、元の英語は embodied meaning である。embody という動詞はふつう、眼に見えない観念や感情に具体的な形や表現を与える、「具体化する」という意味である。たとえば友情を具体化する、といえば、友情を具体的なかたちで表現するという意味である。また文字通り embody には「肉体化する」という意味もある。たとえば、聖霊がイエス・キリストに肉体化(受肉)した、と言った具合である。ダントの場合、「アート作品は意味をエンボディーする」という言い方をする。これをふつうの日本語にすれば、「アート作品には意味が込められている」といったところだろう。でも embodied meaning を「込められた意味」と訳せば、body の意味がでないので、これは困る。「具体化された意味」と訳せば正しいと思うが、「具体化」は「抽象化」という言葉の反対語として連想しやすいので、これもなんとなく不適切のような気がする。あえて言えば、「実体化」が当り障りのない訳語かもしれない。しかしこれも惜しむらくは、宗教的なニュアンスが足りない。かと言って、「受肉」となると、宗教的なニュアンスが強すぎる。いろいろ考えた結果、それでも「受肉」の方が私にとっては納得がいくので、これを使うことにした次第である。
ダントは「受肉された意味」を説明するために、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『マラーの暗殺』を取り上げる。ダントの解釈は次のとおりである。
「ダヴィッドは浴槽のマラーを描写した。風呂の湯が不快な皮膚病から来る痛みを和らげてくれるので、彼はかなりの時間、湯に浸かっていたのである。彼の前にはコルデイのナイフがあり、血が流れている。マラーは死んでおり、仰向けであり、彼の前には死をもたらした道具がある。私は浴槽のマラーを、墓のイエスと比較して解釈する。イエスがそうしたように、彼は立ち上がると、絵画は示している。しかしいずれにせよ、イエスがキリスト教徒のために死んだように、彼は絵を見ている人のために死んだのだとも考えられる。その結果、マラーはサン・キュロット、ふつう革命家のことはこう呼ばれているが、彼らにとって殉教者に相当する。しかしイエスが当時の人々に期待したように、すなわち彼の歩みをたどるべきだと期待したように、マラーは革命のために暴力によって死んだのだから、あなた、この絵を見ている人間は、マラーの歩みをたどらなければならない、という強制命令がある。鑑賞者は、見えないけれど、絵の一部である。ダヴィッドは、まさに中心的な瞬間の、まさに感動的な表現の前に立つように、彼らに呼びかけているのである。この場面は革命の支持者に訴えかける。それがカンヴァスに描かれたという事実から、意味と繋がらないと言う人がいるかもしれない。それ(カンヴァス)はまさに絵画を支えている。それは、意味を受肉するオブジェクトの一部であるとしても、意味の一部では決してない。受肉した意味が、あるオブジェクトをアート作品にするという説明、それはダヴィッドの作品にも、また同様にウォーホルの作品にも適用される。実際、それはアートであるすべてに適用される。哲学者がアート作品には共通の特性などないと、仮定する時、彼らは眼に見える特性しか見ていなかったのだ。何かをアートとしているのは、眼に見えない特性なのである。」(pp.39, 40)
では次に、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』にはいかなる意味が受肉されているのか、それを見ていこう。まずオリジナルの商品ボックスに受肉された意味とは何か、これからはじめよう。オリジナルのボックスはカナダ生まれの、抽象表現主義の第二世代の画家ジェイムズ・ハーヴィ 【James Harvey 1929-65】 によってデザインされた。彼はコマーシャル・アートの世界で成功したようである。一九六四年、ステイブル・ギャラリーで自身のデザインそのままの『ブリロ・ボックス』が積み重ねられて展示されているところを見たとき、彼は一笑に付したという。つまり彼はギャラリーで数百ドルで売られていたウォーホルの作品をアートとは認めなかったわけだ。彼は翌年亡くなっているので、ウォーホルのこの作品がオークションで、300万ドル以上の値がついている現状を眼にすることはできなかった。それは彼にとって幸せだったのか。でもそれは彼にとっては一笑に付して済ますことのできない事態だったことは確かだろう。
それはさておき、ハーヴィのオリジナルのボックスは、消費者に「買って使ってみたいという気持ちにさせる」(p.42) 意図のもとにデザインされている。そして
「ハード=エッヂの抽象、エルスワス・ケリーやレオン・ポルク・スミスに美術史的起源を持つ」(p.42)
デザインである。つまりコマーシャル・アートとして、この作品に〈受肉された意味〉とは、消費者の購買意欲を高めることである。それに対してウォーホルの『ブリロ・ボックス』に〈受肉された意味〉は何かと言えば、それはアートの伝統的な価値観の逆転にあった。一種ニーチェ的な価値の転換をウォーホルは、意識的かどうかは別にして、結果的に、果たしたのである。ウォーホルは
「平凡な世界を美的に美しいと眺めていた。そしてハーヴィと抽象表現主義の彼のヒーローたちが無視、あるいは糾弾するようなものを、彼は大いに称えたのである。アンディは日常生活の表層を愛した。・・・・平凡さの詩学を愛した」(p.43) のである。
すなわち、ウォーホルは、それまでハイ・アートが軽視、あるいは無視、また敵視してきた大衆文化、大衆的イメージに対して、大いなるイエスを発し、アートとして肯定するという、価値転換的意味を『ブリロ・ボックス』に受肉させたのである。
さらに言えば、ハーヴィの
「段ボール箱は〈生活世界〉の一部である。アンディのボックスはそうではない。それは〈アート・ワールド〉の一部である。ハーヴィのボックスは、そう理解されているように、視覚文化に属しているが、しかしアンディのボックスはハイ・カルチャに属している」(p.44)
という点で、両者は存在の位相をまったく異にしているのである。見た目はそっくりでも、そこに〈受肉された意味〉はまったく違う、というのがダントの解釈である。
一九六四年のステイブル・ギャラリーで展示されたのは、『ブリロ』だけではない。『ケロッグズ・コーンフレーク』や『ハインツ・トマト・ジュース』、『デルモンテ・ピーチ・ハーフ』など、ブリロを含めて全部で六種類のボックスが展示されていた。しかしいま話題に登るボックスは、何にもまして『ブリロ』なのである。ダントは
「哲学的に語れば、カートンのいろいろなセット間にあるデザインの相違は、意味が無い」(p.42)
というが、現在『ブリロ』だけがウォーホルの代名詞になっていることを考えると、哲学ではなく、アートとして、『ブリロ』が他よりも優れていた、ということを物語っている。つまり〈受肉された意味〉は同一でも、アートとしては差別化されるということである。アートの一つの定義である〈受肉された意味〉はアートの質を担保しないということである。そして『ブリロ』に成功をもたらした原因が、ハーヴィのデザインにあるとすれば、問題はますますややこしくなってくる。これはダントにとっても悩ましい問題であった。ダントは正直に次のように書いている。「しかしながら、ウォーホルには、ハーヴィが責任を引き受けた美学については、何の功績も認められない。それはボックスの美学である。しかしその美学がウォーホルの作品の一部であるか、ないか、それはまったく別の問題である。なるほど、ウォーホルは『ブリロ・ボックス』のために、ブリロ・カートンを選んだ。でも、彼は同じ展覧会のために他の五つのカートンも選んだ。そのほとんどは美的にはぱっとしないものだった。思うに、これには、すべてのものは同様に扱うべきだという彼の根深い平等主義が一役買っていた。しかしながら、実のところ、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』自体に、あったとして、どのような美的特質が属しているのか、私にはわからない」(pp.147, 148)。これはわれわれに投げかけられた宿題である。こういうところがダントの素晴らしさだ。
アートの定義のひとつ、〈受肉された意味〉についてはだいたい以上であるが、もうひとつの定義〈目覚めて見る夢〉について、これから説明するつもりであるが、これがダントの言うように果たしてアートの定義となりうるかということについては、私自身まだ納得していない。しかしまあダントの言うところを聴いてみよう。
ダントはデカルトを援用しながら、
「夢見ていることと現実を知覚していることを区別する内的な方法はない」(p.46)
と主張する。そして覚醒しているときの経験と睡眠中に夢見ているときの経験を区別できない場合があるけれども、その状況は、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』と商品のブリロ・ボックスをめぐる関係と非常によく似ているというのである。
われわれが睡眠中に夢を見ているとき、それが現実と思い込むことは確かにある。そのときわれわれは現実と夢を区別していない。眼が覚めたときに、夢だったと気づくのである。ひるがえって、われわれがウォーホルの『ブリロ・ボックス』を鑑賞しているとき、われわれはこの作品を現実のスーパー・マーケットで売られているブリロ・ボックスと思い込むことがあるというのであろうか。確かに、ブリロが氾濫しているアメリカ社会と、日本のように、ブリロをまったく眼にすることのない社会とでは、『ブリロ・ボックス』の置かれた状況はまったく違う。ひょっとすると身の回りに目撃することの頻繁なアメリカでは、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』を鑑賞しているとき、それがアートなのか、現実なのか、区別がつかないという状況が生まれるのかもしれない。そしてはっとわれに返ったとき、あれはアートだったと気づくのかしら。私は最大限ダントに寄り添って、解釈してもこんなものである。しかしもう少しダントの言うことを聴くことにしよう。何しろ、〈目覚めて見る夢〉はこの第一章のタイトルなのだから。
ダントは友人の漫画家、ソール・スタインバーグ 【Saul Steinberg 1914-99】 のドローイングを持ちだす。ありふれた箱が、完璧なエッヂと角を持つ幾何学的なキューブを夢見ている作品である。それはまさにウォーホルの夢であった。ダンボールではなく、木製のボックスを制作しようとした決断したときのウォーホルの幾何学に対する夢である。
「シャープな角とエッヂは、ジャッドが気付いていたように、正確さの夢に属する」(p.47)
のである。この意味から言えば、たしかにウォーホルの『ブリロ・ボックス』は〈目覚めて見る夢〉と言って良いだろう。ここでも私はまたしても、ダントに最大限寄り添っている。
〈目覚めて見る夢〉は、睡眠中の夢と違って、われわれのあいだでシェアできるということが、大きな利点である、とダントは言う。。ダントが亡き妻の姿を夢で見て、それが肖像画のように生き生きとした姿をあらわしたとしても、その経験はダント個人にとどまる。しかし〈目覚めて見る夢〉である肖像画の方はわれわれもダントと同様の経験をシェアできるというわけである。「アートは〈目覚めて見る夢〉である」という定義については、今のところ、やはりもう少し考えないと、私の頭のなかでは整理できていない。
ダントは第一章の中心テーマである、『ブリロ・ボックス』の分析にとりかかる前に、さまざまなアート作品を取り上げ、解釈を施している。その解釈がこの第一章を活気づけているといえる。これはぜひダントのテキストにあたって読んでもらいたい。ダントの解釈の対象となった作品を、一応紹介しておこう。ピカソの『アヴィニヨンの娘たち』、この女性そのものの心理学的解釈については、新鮮であったし、少しばかり無理もあると思った。しかし興味深い。次にマティスの『帽子の女』。モデルはマティスの妻であるが、その性格分析からこのフォーヴ作品の色彩と形を解釈する。
ついで、ヨーロッパ起源の抽象とアメリカの抽象との違いを述べる下りがある。ヨーロッパの抽象は現実世界からの段階的な抽象であり、最終段階でどんなに幾何学的な抽象形態をとっていたとしても、それは現実に戻る道がまだ残されている。それに対して、アメリカの抽象はシュルレアリズムの自動書記によったとされる。意識的制御を廃した、自発的ないたずら描き、すなわちアクションによるアーティストの内的な自己と直結する表現であった。こういった分かりやすい説明は、ハイそうですか、と読んでいけばいい。しかし、ヨーロパ起源の抽象の作例として、テオ・ファン・ドゥースブルグ【Theo van Doesburg 1883-1931】の『雌牛』(c.1917) が取り上げられていて、ダントはその説明をユーモアを交えて行なっているのだが、その記述でダントはちょっとした勘違いをしていたので、せっかくだからここでダントに代わって訂正しておこうと思う。
抽象について、ダントは現実のものの形を段階的に抽象化していく作品の存在を、すでに述べたように、ファン・ドゥースブルグの『雌牛』の連作をあげて指摘する。私にとっては、直ぐに頭に浮かぶのは、モンドリアンの樹の連作による抽象化の作例であるが、ダントはモンドリアンの名前はあげない。ファン・ドゥースブルグの『雌牛』の連作について議論を展開するなかで、ダントはジョークを飛ばすが、博学な学者にありがちな間違いを犯している。そのところを引用すると、
「ミノタウロスに色情をいだき、美しい雌牛に変身したパシパエが、ドゥースブルグの最後のカンヴァスに似ていたとしたら、この世のどんな雄牛も、彼女をセクシーな若い雌牛だとは気づかなかっただろう」(p.12)
と、ファン・ドゥースブルグのどこから見ても雌牛とは思えない最終段階の幾何学的抽象に対して、誰も性的な官能性を認めることはできない、というのである。分かりやすいレトリックだが、ギリシア神話ではパシパエはミノタウロスの母であるから、ダントは間違った。神話によれば、パシパエは太陽神ヘリオスの娘。クレタ島のミノス王の妻となった。ミノスは王位継承にあたり海神ポセイドンに牡牛を犠牲として捧げる誓いをたてたが、その牡牛があまりに立派だったので、もったいなくなって自分のものにしてしまった。怒ったポセイドンは呪いをかけ、妻パシパエのハートに火をつけ、その牡牛に恋心を抱かせ寝ても覚めてもの状態にしてしまった。パシパエは募る恋心をどうしても静めることはできず、ダイダロスの助けを借りて、雌牛に変身して思いを遂げた結果生まれたのがミノタウロスだった。ネット情報をかいつまんで要約すると以上のようなことであるが、ダントがギリシア神話についてちょっとした思い違いをして、調べもしないで、筆を滑らしてしまったことは、考えてみると学者としての勲章かもしれない。私などはギリシア神話の教養など皆無だから、ネット上の情報を手っ取り早く検索して、そういうことかと満足している程度。ダントは触れていないが、ミノタウロスといえば、ピカソのエッチングが直ぐに頭に浮かぶし、パシパエといえば、ポロックの初期の絵画にこのタイトルの作品がある。
ダントの作品解釈の作例の話に戻ると、
アシル・ゴーキーが、アメリカにおいてはそれまで存在していなかった「独創的な創造原理」(ロバート・マザウェルの言葉)を、ロベルト・マッタを介して発見し、ニューヨーク・スクールの一員となった悲劇的な経緯に触れ、デュシャンのレディメイドへと話は進む。そしていよいよウォーホルの『ブリロ・ボックス』にいたるのであるが、その〈受肉された意味〉説を補強するために、ジャック・ルイ・ダヴィッドの『マラーの死』を、またそれに関連して、ピエロ・デラ・フランチェスカの『復活』を解釈する。またラウシェンバーグの『ホワイト・ペインティング』とジョン・ケージの『4'33"』の関係も忘れない。テキストに散りばめられた、これら個々の作品解釈は、何度も言うようだが、この第一章の魅力のひとつを形成している。
第二章
修復と意味
この章で私が愕然としたのは、システィナの天井画の中心点にある旧約の物語が、神が最初に造った人間(アダム)から肋骨を一本取って、それから造ったという『女性の創造』の場面であるという事実である。それまで私は、天井画の中心を占めるのは、『アダムの創造』のシーンだとばかり思っていたのである。この偉大な天井画の中でも最も有名なイメージ、神の指とアダムの指が今にも触れようとしている、あのドラマティックなシーンである。そう、カラヴァッジオが『聖マタイのお召』のなかで、ミケランジェロへのオマージュとして表現した、マタイを招こうとするイエスの手である。なぜ、そのように思い込んでいたのかというと、カンディンスキーが面白いことを言っていたので、それについていろいろ調べているときのことであったと思う。
カンディンスキーは、一九三一年、『カイエ・ダール』誌に「抽象美術考」を寄稿しているが、そのなかに次のようなくだりがある。「一本の水平線に組み合わされた一本の垂直線は劇的とも言える響きを生む。三角形の鋭角と一つの円との接触はミケランジェロの、神の指とアダムの指の接触にも劣らぬ効果を持つ」(Cahiers d'Art, 1931, no.7-8, p.352)。これを読んだとき私は、事の真偽は別にして、なんとかっこいい比較だろうと、感心した。それで、円と三角形をモチーフにしたカンディンスキーの絵画にどのような作品があるのかしらと、カンディンスキーのレゾネにあたって調べたり、またミケランジェロの天井画についてもいろいろ調べているうちに、どこから得た情報か今となってはわからないが、天井画の中心に位置する物語は『アダムの創造』であると、私にインプットされたのである。人類の運命がテーマであると言われている、この天井画の中心に位置すべきテーマとして、この『アダムの創造』はまさにふさわしいと考えたのである。カンディンスキーのこの「抽象美術考」については、第四章の「論争の終わり 絵画と写真の〈パラゴーネ〉」で、やや詳しく触れることにする。
しかし、ダント自身も、それまでは気づいていなかった事実について次のように書いている。「天井画にある九点の絵、すなわち『創造』から『ノアの泥酔』までの絵を眺めているとき、私は次の事実に心を奪われた。中心の絵 ― 九つの物語を二つに分断するその中心、そして礼拝堂自体の長手の中心に一致する中心 ― それは『エヴァの創造』である、という事実である」(p.69)。これを読んだとき、私は一瞬、そんなことはないと思い、システィナの天井画をネット上でいろいろ検索し調べてみた。そしてダントが正しいことを確認した。女性の創造がこの天井画の中心なのである。このことはこのミケランジェロの作品を解釈する上で決定的であると、ダントは考えたし、私自身もまたそのことに同意した。ダントの解釈はこうである。少し長くなるが、引用しよう。
「・・・ある意味、女性の創造は偉大な物語の決定的事件なのである。神は闇から光を分け、天を創造し、地から水を分けた。そして一握りの塵から男をかたどった。これらは四つのエピソードである。そして五番目に、神はアダムが眠っているあいだに、その手振りで、女性を存在へと呼び出す。それが五番目のエピソードである。次に、『誘惑と堕罪』『ノアの犠牲』『大洪水』、そして最後に、ノアが酔っ払って石のように床に横たわり、三人の息子が狼狽する。私には、神は女性の創造まではどの絵にも登場するが、それ以後は姿を消している、ということが印象深い。それはまるで、物事の秩序に決定的な断裂があるかのようだ。女性が存在するや、歴史が始まる。それ以前は、単純な宇宙論で、一種の人間原理によって支配される。それ以後は、セックス、道徳の知識、憐れみ、洪水、酩酊である。物語が『大洪水』で終わっていれば、それは、破壊として、『創造』と対称的に対応するものとなったであろう。しかしそれは焦点の定まらない、単なる実行と破壊に過ぎないものに思われる。それが『ノアの泥酔』で終わっていることは、ある意味で、重要である。すべてがふたたび始まるというその仕方において、それは洪水が何のためにあったのかわけがわからない、ことを証明するものである。人材の現実を前提とした、新たな介入が要求される」(pp.69, 70)。
ここで言われる、「新たな介入」とは、イエス・キリストによる人類の救済である。この解釈は実に面白い。アダムのパートナーである、エヴァがこの世に姿を現してから、人類の歴史つまり物語がはじまる。知恵の木の実を食べて楽園を追放されたが、次に、神が見たことは、人間が悪事ばかり考え、悪が地にはびこっている状況だった。そこでノア以外の、神の目にかなわない人間をすべて滅ぼす大洪水を起こして、一旦悪の精算を試みた。しかし、その後、ワインを飲み過ぎて真裸で泥酔したノアの有様をご覧になった神が、次に考えたこと、それは神自身が人類救済のために、人間に受肉して、地球上に降り立ち、自ら犠牲になることで、人間の原罪を清めようという計画だった。ミケランジェロが描いたこの天井画は、神がそうせざるを得なかった前史として、位置づけることができるのである。そして、ダントはこのような解釈を前提にして、この天井画の修復は行わなければいけないと主張する。
この章を読んで私がまったく知らなかったこと、そして天井画についてもっと考えなければならないと思わされたこと、それはダントの画中画の指摘である。これはフレスコの洗浄によって、天井画の建築的イリュージョンが鮮明に見て取れるようになったことから、ダントが気づいたことである。しかしダントは簡単にそのことに触れただけで、それ以上の考察は加えていない。しかしこれはこの天井画を解釈するとき、きわめて重要なファクターであるように思える。どういうことか。
天井画全体をひとつの絵画として見るとき、そこには建築的イリュージョンが全体に広がり、統一感が与えられている。そしてイリュージョンとしての柱と柱で区画された空間に、ひときわ大きく描かれた預言者と巫女たちが九つの旧約の物語を取り囲んでいる。その表現は非常にリアルで、与えられた空間に立体的に、つまり空気感を感じさせるように収まっている。彼らがこの天井画のいわば主役である。またイリュージョンとしての各柱には、多様なポーズをして表現された裸の男性像、イニューディが、二〇体、配されている。これもまたこの天井画の重要なモチーフである。この天井画をひとつの絵画として見るとき、預言者、巫女、男性裸体像、がこの絵画のメイン・イメージである。それに対して、『創造』から『ノアの泥酔』にいたる九つの物語は、絵画の中の絵画として置かれた、いわばこの天井画の建築空間を飾る絵画なのである。よく観察すると、ミケランジェロはメインのイメージ群と、画中画のイメージの描き方を区別している。メインのイメージ群はこの建築空間のなかにリアルに、立体的に、イリュージョニスティックに描かれているのに対して、九つの物語は画中画としてやや平面的に描かれているのである。表現のレベルがまったく違う。もしミケランジェロがそのように描き分けたとしたら、この天井画の解釈はまったく違ったものになるはずである。天井の四隅の三角形、ペンデンティヴのなかに描かれた旧約の物語もまた、画中画として構想されている。つまり天井画に描かれる旧約の物語はすべて絵の中の絵なのである。それは何を意味しているのか。これまでに、ダント以外にこのことを指摘した文献があるのかどうか知らない。しかし天井画の中心に位置する九つの物語が天井画の主役の座から、建築空間に設置されたギャラリーを飾る画中画として、背景の位置に降りるわけだから、このことはこの天井画を解釈する上でとても重要な問題ではないか。私はそう感じている。
この天井画には、七人の預言者と五人の巫女が描かれている。預言者はいずれもキリストの来臨を預言する者たちであり、巫女はいずれも救世主の誕生を預言する者たちである。半円形のルネットとその上の三角形のスパンドレルにはそれぞれ、イエス・キリストの系図に連なる祖先たちが描かれている。そしてダントの解釈するとおり、九つの物語はキリストがなぜ受肉して地上に出現せざるを得なかったかを、キリスト出現の前史として、補足的に物語るのである。この天井画には姿こそ見せないが、その主題はイエス・キリストその人であり、その出現へとすべての画面が方向付けられている。そして祭壇側の壁面に、天井画の隠れた主人公イエス・キリストの姿が画面の中核に君臨する『最後の審判』が描かれたのである。
この第二章「修復と意味」は一九八〇年から開始された、システィナ礼拝堂のフレスコ画修復についての是非について、論じたものである。この修復は一九九九年まで行われた大規模なものだった。これにより、長年の間にロウソクの煙などによって壁画表面に堆積した汚れが除去され、フレスコ画本来の色彩が蘇り、それまでほとんどモノクロームのドローイングとして鑑賞されていたミケランジェロの天井画が、絵画としての姿を取り戻したのであった。しかし、ダントはこれは取り返しの付かない暴挙であったと異議申し立てをする。もしフレスコが乾いたあと、ミケランジェロが何も画面に手を加えていなかったとすれば、表面に堆積した汚れのクリーニングに、何も問題はない。しかし、セッコの状態で、ミケランジェロがこれら旧約聖書の物語に、絵画としての意味を受肉させるために、手を加えていたとしたら、このクリーニングは絵画の最も重要な部分を洗い流してしまったことになる。そうだとすれば、これは取り返しの付かない損失であろう。そしてその可能性は捨てきれないという。
「あるグループがクリーニング以前の天井画に経年変化による汚れと感じたものを、別のグループはミケランジェロの表現の中核をなす一種、形而上学的な薄明と見たのである。登場人物たちは闇から出ようと、また沈み込もうともがいている。ちょうど、ジュリアーノ【ユリウス二世】の霊廟のための彫刻において、縛られた奴隷が石から出ようと、また沈み込もうともがいているようである。その結果、天井画は全体として、英雄的な次元を持っていた。しかし、今やそれは洗い流された。そのような危険を犯してまで、オリジナルな色彩を復元する価値はない、それは容易に想像できる損失である。・・・しかし、形而上学的変容と見えるものが、たんに、ロウソクの煤と香煙の結果だとしたらどうだろう、作品は長いあいだ誤って帰せられていた崇高性を失うことになるかもしれない」(pp.55, 56)。
この引用に見られる、縛られた奴隷は、現在フィレンツェのアカデミア美術館に四体、収蔵されている。アカデミア美術館のホームページによれば、「ミケランジェロは故意に、これらの彫刻を未完成のままにして、物質的囚われの状態から解放されようともがく人間の永遠の苦悩を表現しようとした」と解説されている。これらの彫刻との比較において、天井画では、旧約の人物たちが、闇から解放されようと、あるいは闇のなかに沈み込もうとしてもがいている、というダントのレトリックは、私を唸らせた。つまりこの大規模な修復は、縛られた奴隷の彫刻を、ミケランジェロの意図をはきちがえて、石から解放し人体像を彫り出すも同然で、ミケランジェロがこれらの作品に受肉した意味を台無しにするようなものである、というのである。縛られた奴隷において、奴隷を束縛する石に相当するものが、天井画においては、人物たちを取り囲む闇だというのである。実に説得力のある議論だ。
もうひとつ私を唸らせた議論が『ヨナ』である。
「 ヨナの像を考えてみよう。それは天井画の物語には属していないが、ミケランジェロが描いた最後のエピソードのスタイルで描かれた(物語の順序では最も早いものだけれど)。ヨナは『最後の審判』のすぐ上に位置している。二つのペンデンティヴに挟まれた空間である。切断された球面三角形の凹状表面が隣接している。私たちが空間を抽象的に考えるなら、それは三次元のシェイプト・カンヴァスである。いくぶんエルズワース・ケリーの作品と似ている。ミケランジェロはこの預言者が、この三角形のくぼみに、勢い良く仰向きになっているところを表現する。コンディヴィのようなミケランジェロの同僚を驚かせたのは、『内部へ向かうトルソが眼に最も近い天井部分に描かれていて、外側に突き出ている脚が最も眼から遠い部分にある、ということだ。このとてつもない作品は、短縮法や遠近法で、線を引く能力において、この男にはどれほど多くの知識があるのかを、物語っている』。実際、物理的な表面と、絵画的なイリュージョンとの間には矛盾がある。それによって、ヴァザーリはヨナのパネルを偉大な天井画の『絶頂であり典型である』とみなした。ヨナは天井から自身を解放しようともがいているということがありうるだろうか。束縛された奴隷が、石から解放され、実際、生命を得ようともがいているように、天井の物性からのがれようともがいていることが。」(pp.62, 63)
遠近法と短縮法を駆使して描かれたヨナのイメージは、アクロバット的なミケランジェロの離れ業によって表現されていること、そのことは引用したコンディヴィの文章からよく理解することができる。しかしそれを図版で確かめようとすると、いまひとつよく分からない。ヨナが描かれている支持体の形状が図版から読み取れないのである。引用文によると、「三角形のくぼみ」とあるが、それがどのようにくぼんでいるのか、見て取れないからである。だからヨナのトルソが私たちの眼に最も近い部分であり、こちら側に突き出ている脚が、眼からもっとも遠い、という事実が確認できない。これは実際にこの天井画を実見しないと確認のしようがないようである。少し欲求不満気味であるが仕方がない。しかし言葉の上ではよく理解できる。支持体の空間的構造と描かれたイメージの遠近表現が逆になっているという、あたかも手品を見るような、視覚のアクロバットをミケランジェロがやり遂げている。ヨナが天井画の物理的な壁面特性から逃れようと格闘しているというダントの解釈は、ミケランジェロの短縮法と同じように、思考におけるアクロバットとして、驚嘆に値する。
受肉された意味としての闇に、話を戻せば、フレスコ画の表面が長年にわたる経年劣化で汚れていることもまた真実である。その辺の兼ね合いが難しいところだろうが、ダントの主張も合理的可能性があると思われる。修復が完了した現時点で、今更言っても仕方のないことだけれど、システィナの天井画のような人類の宝物に、手を加える以上、もっと慎重な取り組みが必要であった、ということだけは、言っておかなければならないのだろう。
第三章
哲学とアートにおける身体
この章の冒頭、ダントはカントの『判断力批判』からの一節を英訳で掲げている。試訳すると次のような文章である。
「生命は、身体器官の感触がなければ、つまり、健康であるという感触あるいはその反対の感触がなにもなければ、すなわち、生命力の増進あるいは抑制の感触がなにもなければ、たんに、存在の意識にすぎないだろう。というのは、精神は、身体と一体となってはじめて、・・・単独で生命なのであるから」(p.76)。
この引用には一部省略箇所があるが、文意は平易である。ちなみに岩波文庫の同一箇所を省略なしに引用すると、次のように翻訳されている。
「身体的器官に対する感情を欠くと、生はその実在の単なる意識にすぎなくなり、決して快意もしくは不快意の感情 ― 換言すれば、生の諸力を促進しもしくは阻害する感情でなくなるからである。それというのも、心はそれ自体だけで完全に(生の原理そのもの)であり、また生を促進しもしくは阻害するものが心意識のそとに求められねばならない場合でも、それは同時に人間そのものにおいて、従ってまた自分の身体との結びつきにおいて求められねばならないからである」【岩波文庫『判断力批判』 上巻二〇三頁】。
この対比で、私は何が言いたいかというと、カントを日本語訳で読んだときと、英語訳で読んだときとの、分かりやすさの落差についてである。つまり、カントを日本語訳で読んで勉強した人と、英語訳で読んで勉強した人とでは、それぞれの内心のカント像がとんでもなく相違しているのではないかという危惧である。ではドイツ語原文はどうなのかと、確認したくなるけれども、残念ながら、私はドイツ語が読めないので、誰か詳しい人に教えてもらいたい。
それはさておき、この章で、ダントは、カントの引用にもあるとおり、心身は一如であり、また科学がいくら進歩しても、その一如のメカニズムは解明することのできない謎である、ということを言いたいのだろうと思う。そして身体感覚の重要性にウエイトを置きながら、そのことを説明するために、西欧の絵画の伝統のなかから、聖母子像を取り上げる。神が人間の身体に受肉して、マリアの脚の間から生まれた赤ん坊イエス、その絵画表現はふつうの人間の赤ん坊と同様であるという解釈のもとに、具体的な作例を挙げながら論じている。
ダントは言う。
「神でさえ、人間として受肉するという決定的なことを決意すれば、私たちすべてがはじめるとおりに、生をはじめなければならない。― お腹がすいたり、おもらししたり、汚したり、支離滅裂になったり、痛がったり、泣いたり、唾液を流したり、片言しゃべりをしたり、よだれを垂らしたり ― そして食べさせてもらったり、着替えさせてもらったり、洗ってもらったり、ゲップをさせてもらったり、してもらわなければならない」(p.80)。
一方哲学においては、アートに見られるような赤ん坊は登場しない。主に、デカルトとライプニッツを引用しながら、哲学において心身はどのように解釈されてきたのかを論じている。そして、哲学の身体理解は、絵画の場合と異なり、身体に関する科学的な知見が進展するにつれ、古びた時代遅れとなることを指摘する。フラ・アンジェリコの聖母子像に見られる愛情表現は時代いかんにかかわらず、普遍的に理解可能だが、アリストテレスやデカルトの身体観は、今日の医学書と比べれば、もはや通用しない、というわけである。
私はふだんライプニッツやデカルトといった哲学者の書物を読む習慣がないので、ダントが紹介している、身体に関するテキストが、興味深く、イメージが豊かな点で、面白かった。そこで、ダントが引用した両哲学者の文章をここでも紹介したい。
まずはデカルトである。『省察』六にある、船と水夫の比喩である。
「自然はまた、それら痛み、飢え、渇き等々の感覚によって、私が自分の身体に、水夫が船に乗っているようなぐあいに、ただ宿っているだけなのではなく、さらに私がこの身体ときわめて密接に結ばれ、いわば混合しており、かくて身体とある一体を成していることをも教えるのである。なぜなら、もしこうなっていないとするならば、思惟するものにほかならない私は、身体が傷ついたときでも、そのために苦痛を感ずることはなく、ちょうど舟のどこかがこわれた場合に水夫が視覚によってこれを知覚するように、純粋悟性によってその傷を知覚するだけであろうし、また身体が食べ物や飲み物を必要とするときでも、私はこのことをはっきり理解するだけであって、飢えとか渇きとかの混乱した感覚をもつことはないであろうからである。というのも、これら飢え、渇き、痛み、等々の感覚は、精神が身体と合一し、いわば混合していることから起こるところの、ある混乱した意識様態にほかならないからである」(世界の名著『デカルト』「省察」井上庄七、森啓訳 p.299)
デカルトの言うことはいちいちもっともである。精神、ここでは意識と言った方がいいと思うけれど、は身体と一体となって、身体の不調を私たちは感じ取る。身体が傷つけば、痛みとして私たちはそれを感知する。しかし、残念ながら、まだまだ、その一体性は不完全に思える。例えば、大腸がんを発見するには、水夫が船を点検するように、私たちは内視鏡カメラを使用して、癌を確認しなければならない。私たちの意識は身体との一体性が不完全なので、内臓に致命的な変異が起こっても、意識は感じ取れない。それは「この肉体はいつ何時どんな変に会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしいことだ」と、『明暗』の主人公が考える、きわめて現代的な不安である。デカルトの時代にはこういう事態は想定できなかったのだろうが、現代においては、身体と意識が船と水夫の関係にあるという比喩は有効なのかもしれない。
次はライプニッツである。『モナドロジー』にある風車小屋の比喩。
「それはそうと、言っておかなくてはならないのは、〈表象〉も、表象に依存して動くものも、〈メカニックな理由〉、つまり形や運動など〈をもちだしては、説明がつかない〉ということである。ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋のなかにでもはいるように、そのなかにはいってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かしあっている姿だけで、表象について説明するにたりるものは、けっして発見できはしない。とすると、表象のありかは、複合体や機械のなかではなく、単一実体のなかでなくてはならなくなる。もう一歩すすめていうなら、単一な実体のなかには、以上のこと、つまり表象とその変化しか見ることはできない。またそれだけが、単一実体における〈内部作用〉の全部である」(世界の名著『スピノザ ライプニッツ』「モナドロジー」清水富雄、竹田篤司訳 pp.440, 441)
むかし、半世紀も以前のことだったと思うが、子供の頃、うろ覚えで恐縮だが、「ミクロの決死圏」というSF映画を見たことがある。ミクロの単位まで縮小された潜水艇と人間が、人体のなかに潜入して、たしか脳内出血を起こして意識不明におちいっている患者を治療するというストーリーだった。人体の中では、血流にのって移動したり、白血球と戦ったりして、最後は涙腺を経由して涙とともに人体の外へ脱出して、再び元の大きさに戻るというハッピーエンドだったが、このライプニッツを読んでいるとその映画のことが思い出された。たしかに、人体の中にはいって中の様子をいくら観察したところで、その人間がいま痛がっているのか、快感を感じているのか、また何を考えているのかなど、分かりはしないのである。
ところでこの章では論理の発展や展開は見られない。興味深いエピソードを積み重ねて、最後に、消去主義【eliminativism 信念や欲望といった心的概念はやがて脳神経学によってすべて科学的に説明されるので、それらの概念は実在せずやがて消え去るという立場】を批判して終わっている。
さて、私がこの章でおやっと思ったことは、デ・クーニングの作品解釈をダントが紹介してくれていることである。この解釈は知らなかったので、今後、デ・クーニングの作品を見る上で、非常に参考になった。
ダントはイギリスの哲学者リチャード・ウォルハイム【Richard Wollheim 1923-2003 イギリス美学会会長】を引用する。
「デ・クーニングが究めようとする感覚は、ひとつならず、私たちのレパートリーの中でもっとも根本的なものである。それらは、外的世界に私たちが最初に近づくとき、私たちに与えられる感覚である。そしてそれらの感覚はまた、繰り返されるに連れて、私たちはそれらによって引き込まれる喜びの基本的な形と永久に結びつくのである。人間の知識の基盤においても、また人間の欲望の形成においても、それらは基本である。というわけで、デ・クーニングは、吸うとか、触るとか、噛むとか、排泄するとか、ためるとか、塗りつけるとか、嗅ぐとか、転げまわるとか、喉を鳴らすとか、撫でるとか、おもらしするとか、といった幼児体験を、自分の絵に詰め込む。
そしてこれらの絵には、・・・さらなる注意喚起が含まれている。これらの体験のもっとも早い段階では、それらは、必然的に脅威を与える、ということを私たちに注意喚起する。これらの体験は、興奮状態がひどくなると、体験を抑制する心の脆弱な壁を打ち倒し、未熟で心もとない自己を圧倒するおそれがある」(p.82. from "Painting as an Art". Andrew M. Mellon Lectures in Fine Arts, National Gallery of Art, Washington, D.C. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1987.)。
つまりウォルハイムの説によれば、デ・クーニングの絵画は、私たちがオギャアと生まれた時、それこそ生まれて初めて世界と遭遇し、文字どおり、世界と接触するわけだが、そのときの感覚、汚物の臭いやそのぬるぬるした感触、乳房の暖かさ、母乳の美味しさ、音声としての母の愛情のこもった声、また痛みや快感、そのような皮膚感覚を中心としたごたまぜの世界のなのである。
ところで世界を初めて体験する感覚といえば、すぐに思い浮かぶのは、モネの言葉である。それを世に紹介したのは、モネの弟子として、また隣人として、夏をジヴェルニーに暮らしていたアメリカの女性画家リラ・ペリー【Lilla Cabot Perry 1848-1933】である。ついでに言っておくとペリー女史は、アメリカに印象主義のスタイルを持ち込んだ画家として知られているが、日本とも関係が深かった。彼女の夫が慶應義塾大学の英語教師として招聘された関係で、明治三〇(一八九七)年から三年ほど、日本にも暮らしたことがある。そのとき岡倉天心と知り合い、彼の協力もあって、東京で展覧会を開催したり、また日本美術院の名誉会員(院展では会員のことを同人と呼んでいるから、名誉同人と言った方がいいかもしれない)となったり、富士山を描いた絵画を含めて、日本で八〇点ほどの作品を制作したりしている。印象派の源泉のひとつであった浮世絵については、モネの家でもたくさん目にしていたであろうが、浮世絵の故国日本で、その多様な作品と直に触れることができたのも、彼女にとっては貴重な経験になっただろう。
さてペリー女史は一九二七年に「クロード・モネの思い出 1889-1909」【"Reminiscences of Claude Monet from 1889 to 1909” . American Magazine of Art. Vol. 18, no. 3(March, 1927) pp.119-125.】というエッセイを美術誌に寄稿している。今から引用するモネに関する文章は、ここからのものである。
「『木や家、野原など何であれ、あなたの眼の前にあるものを戸外で描くとき、それらが何であるかということは忘れるようになさい。ここには小さな青い正方形がある、ここには楕円のピンクがある、ここには黄色の縞があるという具合に、ただそのように考えなさい、そしてあなたに見えるままに、その正確な色と形を描きなさい、そうすれば、あなたの眼前の風景の素朴な印象が得られます』。
彼は言いました。願わくは、盲目に生まれて、それから突然、眼が見えるようになればいい。そうすれば、眼前に見えているものが何であるか知ることなく、こんな風に描きはじめることができるだろう。〈モチーフ〉に対するきちんとした、この最初の一瞥が、最も真実の、最も偏見のない見方ではないか、というのが彼の考えでした。そして彼は言いました。最初に全体の色調を決めるためには、どんなにラフでもいいから、最初の描写から、できるだけカンヴァス全体をカヴァーするようになさい。・・・
モネの絵画哲学は、あなたが現実に見ているものを描くことであって、あなたが見るべきと考えるものを描くことではありません。試験管のなかでのように、孤立したオブジェクトではなく、日光と大気に包まれたオブジェクト、青い蒼穹が翳りのなかで反映しているオブジェクトなのです」(上掲書 p.120)。
ところで、このペリー女史の報告に哲学的な権威を与えることにしよう。最終章の「美学の将来」に登場することになる、アメリカの論理学、哲学の天才、チャールズ・パースは、現象学を扱った論考のなかで、次のように書いている。現象を観察するための能力として、パースは三つの能力を挙げるが、その最初のものは稀な能力であるという。
「この仕事を行うためにわれわれが努めて結集しなければならない能力は三つある。その最初の第一のものはあの稀な能力、すなわち眼前に迫るものを、いかなる解釈も入れずに、また生起するであろうあれこれの限定状況による手加減が加わってその素朴さを失うこともなく、ちょうどそれが現れるままに見る能力である。地面が雪で覆われていて、その上を、影が落ちている部分のほかは太陽がきらきら輝いているとして、もしあなた方が誰か普通の人にその色がどのように見えるかを尋ねたとすると、かれは、白だ、真っ白だ、太陽が輝いているところは一層白く、影のところは少し灰色がかっている、と言うだろう。しかし彼が述べているのは彼の眼の前にあるものそのものではなく、そのように見える〈べき〉であるという彼の考えである。その人に対して、芸術家は、いや影のところは灰色ではなく鈍い青色だ、そして太陽が輝いているその雪は鮮やかな黄色だと言うだろう。その芸術家の観察力こそ現象学の研究においてもっとも必要なものである」(米盛裕二編訳『パース著作集1 現象学』勁草書房 pp.153, 154)
パースは一九一四年に亡くなっているから、上の文章はそれ以前に書かれたものである。具体的には、「現象学について」と題されたテキストの中の一節で、一九〇三年のハーヴァード・レクチャーの第二回目に使用された原稿である( On Phenomenology in The Essential PEIRCE vol.2 1893-1913, 1989 Indiana University Press )。ペリー女史が紹介するモネの言葉もまた、一八八九年から一九〇九年までのものだから、だいたい同時期と考えて良いだろう。パースが印象主義の理論を知っていたとは思えないが、「芸術家の観察力」についての言及は、まさにモネを代表とする、印象主義の考え方そのものである。現象を絵画的に捉える方法と、哲学的に捉える方法とは、双方自覚的に、ピタリと一致している。なんだか不思議な感じがするが、これは時代の思潮だったと片付けてすむものだろうか。いずれにせよ、モネが目指す究極の絵画は、現象学的な把握に基づくものであった。例えて言えば、それは生まれたばかりの赤ん坊が初めて世界を見たときに、その網膜に映る光と色彩の視覚世界である。
一方、デ・クーニングの場合は、赤ん坊の眼が開く以前、赤ん坊にまだ視覚の世界が訪れる前に、手や足、嗅覚や味覚を含めた体全体で出会う感覚世界の絵画化ということになる。これは私にとってとても興味ふかい発見であった。
第四章
論争の終わり
絵画と写真の〈パラゴーネ〉
そもそも絵画と写真とにアートとしての〈パラゴーネ〉(優劣論争)があったのかどうか、私は知らない。最近、デイヴィッド・ホックニーの労作、『秘密の知識』【David Hockney, "Secret Knowledge", 2006, Thames & Hudson】を読んで、絵画と光学的イメージとの切っても切れない関係について、いろいろと考えさせられたので、なおさらその感が強い。もともと絵画は光学的イメージに基づいて描かれてきたのである。光学的イメージとは、写真機の発明されるはるか以前から、カメラ・オブスクラや凹面鏡、あるいはカメラ・ルシダ、そして何よりもレンズによって、私たちが見ている三次元空間の映像を、二次元の平面に投影させて得られたイメージのことである。だから絵画は光学的イメージを参照しながら描かれてきたという、ほとんど事実と言っていいと思うが、そのような歴史を持つ。いわば、絵画とは、写真機が発明される以前は、光学的イメージを画家の手によって定着させる装置であった、と言えば、言い過ぎであろうか。それが写真機の登場によって、光学的イメージを定着させるのに、画家の手は不要になった。だからこそ、当時、街の肖像画家たちはこぞって、写真屋さんに転向したのである。そしてカメラが一般に普及すると、だれでもがシャッターを押すだけで、光学的イメージが手に入るようになった。すなわち写真である。その結果、絵画は、目指すべき道を光学的イメージとは別のところに求めざるを得なくなった。要するに、モダン・アートの出現である。それは同時に、アートの定義としての、アート模倣説が無効になった瞬間であった。
残念なことに、ダントはこの章を書くにあたって、ホックニーを読んでいない。しかし、「カメラがモダニズムを起動させた」(p.110)というダントの結論はホックニーとまさしく同一であった。
Gericault, c.1820
ダントが上の結論に達した経路を辿ってみよう。ダントは光学的真実と視覚的真実を峻別する。視覚的真実とは、私たちの肉眼で捉えることのできる映像である。たとえば私たち人間の眼は、馬が走っているときの前脚と後ろ脚が、具体的にどういう動きをしているかを知覚することはできない。だからドガ以前の絵画では、上の図版のジェリコーの『エプソム・ダービー』に見られるように、馬が全力で走っているところは前脚は両方とも前に出し、後ろ脚も両足 同時にうしろに跳ねているところがよく描かれた。また馬がトロットで走っているときは、必ず一本の足が地面についているように描かれてきた。これが視覚的真実である。現在では、テレビジョンの競馬中継で、ゴールの瞬間をストップモーションで写しだしてくれるから、馬がそのような格好で走ることは決してないと私たちは知っている。テレビもなければ、シャッター・スピードの速いカメラも存在しなかった一九世後半、走っているときの馬の動きが、気になる競馬関係者がいても不思議なことではないだろう。それで、カリフォルニアの競馬サークルで、これが賭けの対象になったのである。この肉眼では決着の付かない問題を解決すべく依頼されたのが、エドワード・マイブリッジであった。一八七二年のことである。ダントはトロットで走行中の馬の四本の蹄が、同時に地面につく瞬間があるかどうか、という問題だった書いているが、私がこれまで得た情報によれば、トロットで走行中の馬の四本の脚が、同時に地面を離れることがあるかどうか、つまり走っている馬は空中を飛ぶ瞬間があるかどうか、という設問であったと思う。どちらが正しいのか、今のところわからないが、マイブリッジは与えられた課題を、翌一八七三年、一枚の写真を撮影して、どうにか証明したようである。その後、カメラのシャッター・スピードの高速化や、フィルムを高感度にするなど、改良を重ね、一二台のカメラを一直線上に配置し、馬が走っている一二の瞬間を連続的に撮影することに成功して、馬の正確な動き、ダントの言葉で言えば、光学的真実を持つイメージを世に知らしめたのである。
マイブリッジはその後、鳥や他の動物、人間を含めて、運動する様子を連続写真で捉え、出版した。これら、一連の運動の分解写真は、当時のアートに大きな影響を与えた。特にドガはそれ以後、マイブリッジの写真に基づいた馬のギャロップを絵画においても彫刻においても制作している。またマルセル・デュシャンの『階段を降りる裸体 No.2』もマイブリッジの写真からインスピレーションを得たと言われている。フランシス・ベーコンに至っては、マイブリッジの写真から直接、様々な人体の動き、姿勢を借りて描いているほどである。
「視覚情報に関する私の主要な供給源はマイブリッジである。人間と動物の動きを写真に撮った一九世紀の写真家である。彼の作品は信じられないほど正確だ。彼は運動の視覚的辞典を作り上げた。生きた辞典を」【Prodger, Phillip. Time Stands Still: Muybridge and the Instantaneous Photography Movement. Oxford University Press, 2003. p.263】
とベーコン自身が語っているようである。
カメラが捉えた、人間の肉眼では見ることのできない映像を、ダントは光学的真実と呼ぶ。そして絵画においては、視覚的真実を光学的真実に優先させるべきだと、暗に主張する。ダントは、ジェリコーの描く馬の動きの方が、「マイブリッジの光学的に正確な写真よりも、視覚的に言えばはるかに説得力のあるものだった。写真は馬を紋切り型にに見せる」(pp.105, 106)と言うが、果たしてそうだろうか。私の眼には、ジェリコーの馬は不自然で仕方ないし、それこそ紋切り型に見える。それほど私たちの周りには、光学的イメージが氾濫しているのである。肉眼では見えるはずのない動きを、もはや私たちは肉眼で見ているような錯覚に陥っている。視覚はきわめて知的な感覚であるので、これは仕方のないことかも知れない。
またダントは、人間の表情に対しても、光学的イメージにクレームをつける。ダントは次のように言う。
「ASA一六〇のフィルムを使って、六〇分の一秒のシャッター・スピードで撮影すれば、眼では絶対に見ることのない顔の様子 ― いわば「表情間」 ― を捉えることができるだろう」(p.106)。
自分自身を含め、人となりをよく知っている人物の顔写真に、きわめて強い違和感を持つことがあるが、それはこの所為だというのである。つまり、馴染んでいるその人本来の表情に落ち着くまでの、その移行中に見せる瞬間的な表情をカメラは捉えるから、時としてそのような、らしくない表情が発生する。ダントに言わせれば、これは光学的真実かもしれないが、視覚的真実に対応するものではないとして、カメラの特性を考察していく。これについても、私はいわば異化された自己を写真に見たり、異化された友人の肖像を発見したりできる点で、光学的イメージを評価する。知られざる一面の発見として、私は理解するのであるが、ダントは違う。ここでもカメラの捉える表情は紋切り型だと切って捨てる。どうもダントは基本的にカメラのイメージがお好きでないようである。
ところで、クレメント・グリーンバーグは絵画におけるモダニズムを絵画空間の狭隘化として定義した。ダントも一部、省略して引用しているが、ここでは省略なしに引用しよう。出典は「抽象と具象」【'Abstract and Representational', 1954】である。
「ジオットからクールベまで、画家の第一の仕事は三次元空間のイリュージョンをくり抜くことであった。このイリュージョンは、視覚的出来事によって生きづく舞台として考えられ、絵の表面はその舞台を覗く窓として考えられた。しかしマネは舞台の背景幕を手前に引きはじめた。そして彼につづく画家たちは ― 印象主義者、新および後期印象主義者、フォーヴ、キュビストなどなど ― それを前へ前へと引き続けた。その結果、今日、それは窓あるいは表面にぶち当たり、それを塞ぎ、舞台を隠すようになった。今や画家の残された取り組むべきものといえば、いわば、多少とも、不透明な窓ガラスしかない」。
グリーンバーグはこういった実に明晰で、イメージを喚起する説得力のあるテキストによって、抽象の出現を見事に説明した。しかしグリーンバーグにとってモダニズムの起点であるマネがどうして「背景幕を手前に引きはじめた」のか、それについては彼は何も語っていないが、ダントはこれを受けて、マネの画面構成を写真と関連付けて解明する。
私はマネと写真の関連について今まで考えたことがなかったので、ダントの指摘はすこぶる新鮮だった。マネと写真の関連をダントに気づかせた作品は、『皇帝マキシミリアンの処刑』(1867)である。この作品にはいろいろヴァージョンがあるが、不思議なのは、銃口とその標的が近すぎる描き方である。銃口の先が標的たる人物に接しているようにみえる。ダントは、これはカメラの効果だという。「当時のレンズはしばしば望遠であったし、それは眼に見えるよりも、事物を近くに ― お互い接するように ― 示す」(p.109)として、今日の野球中継に見られる、ピッチャーとバッターがお互いすぐ近くにいるように映るテレビの映像を持ちだして説明している。マネのこの作品は、ゴヤの『五月三日』が下敷きになっているが、ゴヤの場合、視覚的真実が優先しているから、マネの場合のような距離感の不自然さはない、とダントは言う。しかし、ゴヤの作品にしても、銃撃隊とその被害者との距離は、あまりに近すぎるように、私には思えるけれども、どうだろうか。ネットで検索していると、マキシミリアンの処刑のシーンの写真映像があったので、実際はどうであったか、参考までに掲げておく。
マネの作品に色調のグラデーションが見られないという特徴について、ダントはこれも写真の効果だと指摘する。
「それは写真で、正面から照明をあてられたオブジェクトが影をほとんど無くす、その感じを見習うものであった。肖像画を描くにあたって、マネがつかんだ効果である」(pp.109, 110)。
そして
「レンズにはイメージを前方中央に押し出す傾向がある。マネの『サン・ラザール駅』に見られるように、すべてが前景で混み合っている。賭けてもいいが、マネの絵画は写真家のナダールとの議論に多くを負っている。最初の印象派展は一八七四年に彼のアトリエで開催されたのである。カメラがモダニズムを起動させたのである」(p.110)
とダントは結論した。
マネの最晩年の作品である『フォリー・ベルジェールのバー』も、「すべてが前景で混み合っている」、つまりカウンターとその背後の鏡、そしてその間に立っているモデルのバーのメイド。空間はとても狭い。この不思議な絵画の謎は、近年解決されたようである。
この絵画はモデルのバーメイドを正面から見て描かれているように見える。モデルの後ろの鏡に見えるカウンターの端の角度から推測すると、消失点はモデルの顔の背後に結ばれる。きわめて自然な構図である。しかし鏡に映っているモデルの後ろ姿は画面の右に偏っている。鏡が画面と平行でないとすれば、このように見えることも考えられる。しかしそうだとすれば、鏡はカウンターとも平行でないことになり、バーの作りとしては常識的ではない。
モデルとその鏡像との位置関係を基準にして考えてみよう。すると、モデルのすぐ前に配されたコップに差された花は、たしかに、後ろの鏡の中では画面の右端に描かれているので、その位置関係は正常である。そのことから判断すれば、カウンターに配されたこの花よりも右側に置かれた果物とボトルは画面からはみ出していることになる。そしてモデルの背後の鏡に映っているボトルは、実際にはこのカウンターの左隅にあるはずのもので、実像である画面のカウンター上には見えないところ、もっと左側に置かれているはずである。したがって、画面に向かって左下に描かれた、カウンター上の六本のボトルは、鏡では、モデルの影になって見えないのである。そしてまた、鏡に映っているシルクハットの紳士は、バーメイドの前に立っているかもしれないが、画面からははみ出て、見えないのである。つまり、この作品には、実像と鏡像がどちらも描かれているもろもろのオブジェクトと、実像だけがあり、鏡像のないもろもろのオブジェクト、その反対に、鏡像だけがあり、実像は画面の外に追いやられたもろもろのオブジェクトで、構成されているのである。
鏡が、画面と平行に設置されていることを前提とすれば、実像としてのもろもろのオブジェクトとそれらの鏡像との位置関係を一気に解決させるには、画家の視点をモデルの正面ではなく、画面の右外側に移せば良い。
このことを実験映像で見事に実証したのは、オーストラリアの美術史家、マルコム・パーク(Malcolm Park)である。二〇〇一年、ニュー・サウス・ウェールズ大学での博士論文でこの研究結果を発表した。私がこのことを知って驚いたのは、ゲッティー・センターのホームページに掲載された記事によってである。ゲッティー・センターは、二〇〇七年に「マネのフォリー=ベルジェールのバー」と題した展覧会を開催した。その概要がゲッティー・センターのホームページに掲載されていて、そこでこの事実が明らかにされていたのである。
そしてもっと驚くべきことは、後ろの鏡に映っているシルクハットの男性とバーメイドとの関係である。この紳士はこのバーメイドの前に立っているけれども、その視線はメイドではなく、反対方向に向けられている。鏡に映った映像では、あたかも男女が顔を突き合わせているように見えるけれど、実際は、バーメイドとシルクハットの紳士は眼をあわせていないのである。だとするとこの絵画の従来の解釈、それはバーメイドが売春婦であり、この男性がその客であるという憶測を前提とした解釈が、成立しないということである。マネはこの絵画を見たとおりに描いたのであり、そこに何の意味も込めなかった。
この作品をはじめて知ったときから、いつも何となく釈然としなかった、もろもろの謎がこれで氷解した。ただ、マルコム・パークの指摘によれば、唯一マネが見たままを描いていない箇所がある。それは最初に言ったことだが、鏡に映ったカウンターの端の角度である。消失点は画面からはみ出た右外にあるわけだから、この傾斜はもっと鋭角で、右に傾いていなければならない。マネのトリックはただこの一点にあった。詳細はゲッティー・センターのホームページを参照されたい。
以上の謎解きを知ってから後になって気づくことであるが、マネは画家の視点がどこにあるかというヒントを、ちゃんと残していた。「フォリー・ベルジェールのバー」には、これと同年、一八八二年に描かれたオイル・スケッチがある。そこでは、カウンターの右側の端が急角度で描かれていて、画家はかなり右側からバーメイドを見ていることがわかるのである。マネが施したちょっとしたトリックが解明されるまで、一世紀以上かかったわけである。しかしそれだからといって、この作品の価値が下がるわけでも上がるわけでもない。絵画の構造が理論的に解き明かされたからといって、作品に内在するアートとしての価値は変化しない。それどころか、私たちはもろもろの謎から解放されて、やっと作品自体と、この作品の本質と、やっと対峙することができるようになったのである。そこには近代絵画の出発点としてのマネがその本来の姿を見せている。
話をダントに戻そう。
いずれにせよ、マネの作品における奥行き空間の浅さをカメラ映像と関係付けたのは、ダントの功績である。マネは光学的イメージを描こうとしたのではない。そうだとすれば、当時のアカデミズムの画家たちと変わるところがない。そうではなくて、マネは光学的イメージの特性を絵画に利用したのである。つまりカメラの絵画化である。ドーミエのカリカチュアに、バルーンに乗り込み、パリ上空から空中写真を撮影しているナダールを描いた作品があるが、ドーミエはそのタイトルとして「写真をアートの高みに持ち上げたナダール」とつけた。ダントはこのタイトルを言い換えて、マネが絵画にもたらした近代性を指摘する。つまり「アートを写真の高みに持ち上げたマネ」というわけである。これがダントの言いたいことのすべてである、と思う。
ホックニーはモダニズムの発生を、絵画の、光学的イメージからの決別によって説明する。グリーンバーグは絵画メディウムの純粋化にともなう絵画空間の狭隘化から、モダニズムを説明した。ダントは光学的イメージと絵画の幸福な結婚から、モダニズムを説明する。実に面白い。
もうひとつ、ついでに、第二章の「修復と意味」のところで話題にしたカンディンスキーの、いわばモダニズム論を紹介しておこう。すでに書いたように、カンディンスキーはカイエ・ダール誌に抽象美術考【Réflexions sur l'art abstrait】を書いたが、そのなかに、絵画が抽象に向かっていく過程を、聴覚的に説明している。
その前段として少し解説しておくと、一九三一年にカイエ・ダール誌は抽象美術の特集を組み、何回かにわたって連載した。カンディンスキーの論考はその第四回目にあたる。私が非常に面白く感じたのは、この特集を組むにあたって、カイエ・ダール誌の編集部が、なぜ抽象美術を特集するのか、その理由を書いているところである。それが意外であった。カイエ・ダール編集部によれば、編集の原則として不偏不党を旨としているので、今回、抽象美術を取り上げるというのである。そして抽象に関心を寄せるアーティストや評論家に意見を聴くというもの。ということは、一九三一年にあっても、芸術の都パリでさえ、抽象美術はまだ市民権を得ていなかったということになる。編集方針に悖らないよう、それまでは具象美術ばかり取り上げていたけれど、今回は抽象にも目を向けようということである。おまけに、当時、抽象は次の四つの観点から非難されているといって、それらの抽象排斥論まで、ご丁寧に書き添えているのである。こういった抽象非難に対して、どのように抽象を擁護、推進するのかという、抽象に関わる人間のいうことが聴いてみたいというのがカイエ・ダール誌の目論見のようである。四つの抽象非難は、今日でも通用しそうな理屈なので、ここで紹介しておく。
(抽象は)「1 故意に、無表情、過度に頭脳的、したがって、本質的に感覚的で情緒的なものに属する真の芸術の特質そのものと矛盾する。2 無意識の深淵から来る情緒を、多少とも器用で精妙だけれどいつも客観的に、純粋な色調、幾何学的なデッサンを行使して、故意にそれと置き換えている。3 絵画や彫刻に与えられている可能性を制限し、芸術作品を、非常に狭い造形的合理主義という形式のもとに刻印された色彩の単純な戯れに還元してしまう。それはポスターや商品カタログにこそふさわしいものであり、芸術的な領域を支配する作品に対してはまったくふさわしくない。4 厳格なテクニックと完全な整理、単純化によって、芸術を袋小路に追いやり、かくして進化と発展の可能性の芽をすべて摘んでしまった」(Cahiers d'Art, 1931, no.7-8, p.350)
となかなか堂に入った抽象非難を展開している。
さて、カンディンスキーは絵画の流れを絵画に託された意味の騒音から、徐々に絵画が意味から解放され、静かになってていく歴史として理解する。つまり、キリスト教絵画においては、聖人たちや、聖母子など、それらにはキリスト教の教義や、イエスの誕生から磔刑にいたる物語など、意味が充填されている。ギリシア神話に基づく絵画も、そうである。また歴史上の人物の肖像画にしろ、その人物にまつわる物語が、絵画には込められている。しかし一七世紀になって、風景画が登場した。そこには景色が描かれているばかりで、物語とか、内容は問題にされることの無いジャンルである。そこでカンディンスキーは次のように語る。
「風景画の時代の後、つまり風景画が『容認された』時のことだが、新聞や大衆、そして画家たち自身が新たな恐怖に襲われた。突然『静物画』【フランス語では『死んだ自然』nature morte 】が次から次へと描かれ始めたのである。風景画は少なくとも生きた何ものか(生きた自然)である、と当時言われていたが、この『自然』が『死んだ』と言われるのはただ事ではない。
しかし画家には控え目で静かで、ほとんど無意味な対象が必要だったのだ。一個のりんごはラオコーンの傍らでは何と静かなことだろう!
一個の円ははるかに静かである。りんごと比べてもはるかに。われわれの時代は理想的ではない。しかし数少ない重要な『革新』の中に、あるいは人間の新たな美点として、増大しつつある能力、沈黙のなかに響きを聴きとる能力を評価するすべを持たねばならない。かくして騒々しい人間はより静寂な風景画に取って代わられ、風景画自体もはるかに静寂な静物画に取って代わられたのである。
さらに一歩前進した。今日、一個の点がしばしば人間像よりも絵画として多くを語っている。
一本の水平線に組み合わされた一本の垂直線は劇的とも言える響きを生む。三角形の鋭角と一つの円との接触はミケランジェロが描いた、神の指とアダムの指の接触にも劣らぬ効果を持つ」(同誌 pp.351, 352)。
第二章で言及したミケランジェロの「アダムの創造」における神とアダムの指の話は、このような文脈で、カンディンスキーが語ったことである。音楽に造詣の深かったカンディンスキーらしく、絵画に込められた意味を聴覚的に、騒音ととらえ、絵画が寡黙になっていく歴史として、すなわち、人物を主体とした絵画から、風景画、静物画、それから幾何学的抽象画へと至る歴史として、西欧絵画の展開を説明した。そして、カンディンスキーは「沈黙のなかに響きを聴きとる能力」を人間の新しく増大しつつある能力としているが、この能力は本来的に人間に備わっていると、私は思う。ダントがアートの定義として、「受肉された意味」というとき、それを発見するのは、まさにこの「沈黙のなかに響きを聴きとる能力」ではないだろうか。これがカンディンスキーの、いわばモダニズム観であった。これもまた、絵画について考えさせられる、素晴らしい着想である。
第五章
カントとアート作品
この章でダントが言わんとするところは、カントのアートについての考え方が、現代アートのみならず、すべてのアートを理解する上で、資すること大である、ということである。カントは趣味あるいは美といった、私たちの感性に訴えかけてくる概念以外に、『判断力批判』の中ほどで、アートには精神が不可欠であるというコンセプトを導入した。カントは『判断力批判』四九の「天才を形成する心的能力について」のはじめのところで書いている。
「我々は或る種の作品について、これらの作品が少なくとも部分的には芸術の体裁を具えている筈であると思いながらも、しかし『精神を欠いている』と言うことがある。実際かかる作品とても、趣味の点ではまったく間然するところがないのである」(岩波文庫、篠田英雄訳、上巻 p.266、以下カントの引用はすべて岩波文庫から)。
続いてカントは詩や、物語、そして演説や会話などを例に取り、「精神を欠いている」事例を列挙する。そして最後に「婦人についてさえ我々はこう言うことがある ― 彼女はきれいで、話好きでかつしとやかではあるが、しかし精神を欠いている、と。それならば我々がここで精神と呼んでいるところのものは、いったい何を意味するのであろうか」(p.267) と、問いかけ、「美学的意味における〈精神〉とは、心意識において生気を与える原理のことである」そして「この原理(精神)は、〈美学的理念〉を表現する能力にほかならない」(上巻 p.267) と定義した。
そしてこのカントの考えは、ヘーゲルの次のような精神と趣味についての考察につながっていく、とダントは主張する。
「ともあれ、事柄の深い意味をとらえることは、趣味的にできることではない。深い意味をとらえるには、感覚や抽象思考だけでなく、充実した理性と本物の精神が必要ですが、趣味的に物の表面にふれるだけでは、感情のたわむれと一面的な原則の横行が見られるだけだからです。だから、いわゆる趣味のいい人は、美の深い力を前にしてつねに恐れをいだき、外見や付属物が消えさって、事柄の本質が問題となるときには、沈黙を守ります」(『ヘーゲル美学講義』上巻、長谷川宏訳 作品社 pp.38, 39)。
精神と趣味について、ダントは分かりやすい例として、次のように説明する。「一点の絵画は趣味に関する限り、美しくありうるが、精神が欠けているため完全でないことがある。レムブラントの隣に置かれれば、ほとんどのオランダ絵画は、どんなに趣味が良くても、精神に欠けるようにみえるだろう」(pp.117, 118)。また興味深いことに、カントと同時代の画家、ゴヤもまた似たような議論をしていると、ダントは指摘する。美的に完成度が高い作品に感心しないことがあるが、それはそこに創造的契機としての天才、あるいは精神が無いためである、という議論である。すなわち「アートにおいて、真に重要なのは精神 ― 天才の存在 ― である」(p.121)。だから犬の品評会のようには、アートの展覧会を判断するわけには行かないのである。
クレメント・グリーンバーグはモダニズム美学の基礎として、カントの『判断力批判』を第一にあげているが、ダントに言わせれば、それ以上に、カントの美学理論は現代アート、すなわち、モダニズム以後のアートに深く結びついている。それは端的に言って、ダントのアートの定義、「受肉された意味」と、カントの美学的理念とが親和性を持つということである。カントはアートに対する考え方に精神を導入した。それは意味を形成することにあり、ただ見るだけではなく、見ているものに意味を見出そうとする、私たちの精神構造を前提として考えられている。だとすれば、カントの美学はまさにダントの美学である。
この章の結論は以上でつきているが、それを補強するためにダントはさまざまなエピソードを紹介している。そのなかから私の印象に残ったものを二つ取り上げよう。
カントの言う美学的理念とは、感覚を介して提示され、感覚によって体験される理念である。この言葉の組み合わせは、当時にあっては矛盾を孕む大胆な言い回しであったに違いないと、ダントは指摘する。なぜなら、感覚は支離滅裂で混乱をきたすものであり、理念的なものとは正反対の概念であった。それに対して理念は感覚に背を向け、知によってのみ獲得されるものであったからだ。美学的と訳されたエステティックとは、そもそも感性的なという意味が原義である。すなわち感性的理念と訳しても間違いではない。感性と理念、この組み合わせは水と油である、というのである。
それはさておいて、アートは経験の限界を超える何ものかを追求するのであるけれども、それを表現するためには、私たちの経験のうちにあるものを利用しなければならない。「つまりアーティストは理念を感覚媒体に『受肉する』方法を発見する」(p.123) 必要がある。では具体的に、アーティストはいかにしてこういった理念を、私たちの感覚あるいは経験を介する形で、表現しているのかを示す作例として、ダントはピエロ・デラ・フランチェスカの『復活』を取り上げて解説している。少し長くなるが、引用する。
「・・・この途方もない絵画には、二つの音域がある。実際、下部の音域には、重装備の一群の兵士がキリストの墓所の傍らで眠っている。そして上部の音域には、キリストが旗を持って、墓から起き出ようとしている。彼の顔には放心した勝利の面差しがあると感じられる。彼と兵士たちは異なる遠近法に属している。キリストを見るには、眼を上にあげなければならない。復活は『夜明けの曙光』のなかで起こる。それは、文字通り、また象徴的にも、新たな日である。同時に、それは文字通り、また象徴的にも、新たな時期である。というのは、それは、冬と春の間の入り口の寒い日であったからだ。兵士たちはそこに配置され、キリストの死体が持ち去られないよう気をつけていた。兵士たちはいわば生きた警報装置として、墓泥棒によって作動しはじめる。どちらにしても、― キリストは彼らが眠っている間に、まったく気付かれずに、復活する。彼は墓室の蓋を乱すことすらしない。キリストはまだ肉体を持っているけれど、― 私たちは彼の傷を見ることができる ― 彼は純粋な精神であるかのようだ。彼の言語は彼の通常ならざる理念をありふれた経験に結びつける。死と復活、肉体と精神、人類の新たな出発、といったまったく複雑な理念は、単一の感動的なイメージとして受肉される。私たちは私たちの眼の前で、神秘が上演されるのを見ることができる。ピエロは信仰の中心的教義に具体的住居を与えたのである。もちろん、私たちが見ているものを理解するためには、解釈が必要である。しかし解釈が進むに連れ、情景のさまざまな断片がしかるべき場所に収まり、その結果、私たちは驚くべき奇跡を見ているのだと認識するのである。眼と精神とのギャップは『アートという媒介概念』によって橋渡しされている」(p.125)。
この『キリストの復活』(1463-65, 225x200cm フレスコ)はイタリアはトスカナのサンセポルクロという小さな町の美術館(もとは市庁舎であった)にある。と言っても、ピエロ・デラ・フランチェスカの生まれ故郷であるこの街へ、私は行ったことはない。このフレスコ画にはいろいろなエピソードがあって、その点からも有名。たとえば、このフレスコ画は、信じがたいけれど、あるとき不心得者によって石膏で上塗りされ、塗りつぶされていたという。ピエロ・デラ・フランチェスカが流行らなくなったからかもしれないが、ずいぶん思い切ったことをしたものである。嫌いな絵を見るよりは白壁の方がましだという判断はわからなくもないが、何にせよ相手が作品数のきわめて少ないピエロなので、その希少性から言っても、どうしたことかと驚きを禁じ得ない。しかしながらこの不心得者の所業は、結果的にはこの名画の保存にとって、ベストであった。一九世紀になって、キリストが復活した如く、この上塗りされた石膏が自然に剥がれ、「自力で」ピエロの作品があらわれ、しみひとつない良好な状態で復活したというエピソードが語られている。もうひとつ、イギリスの小説家オルダス・ハクスリーがこのフレスコ画を「世界一の名画」だとか「世界で最も偉大な絵」であるとか、一九二五年のエッセイ「最高の絵 The Best Picture」("Along the Road, Notes and Essays of a Tourist", 1948, Chatto & Windus, London に所収)のなかで書いていて、第二次世界大戦中、それを読んでいたイギリス軍の将校が、ドイツ軍から取り戻すため予定していた、この街に対する砲撃をやめさせて、このフレスコとこの町を守ったというエピソードも語られている。
ハクスリーはこのエッセイのなかで、ダントの問題意識につながるような議論を展開しているので、紹介しておこう。画家や詩人、音楽家など、世界で誰がベストかというような順位付けは、価値観の多様性から見ても、無意味であると、一般に思われているけれど、ハクスリーはアートの価値の基準は存在すると主張するくだりである。
「・・・フラ・アンジェリコとルーベンスはどちらが優れたアーティストであるか?。こういった質問は、無意味だと君は主張する。しかし、それにもかかわらず、アートの価値を決める基準は存在する。そしてそれは、最終的には道徳的な基準である。アート作品の良し悪しの問題は、全面的に、作品として表現される特質に依存する。道徳的な人がみないいアーティストであるとは限らないし、すべてのアーティストが通常、道徳的というわけでもない」(上掲書 p.179)
と、ハクスリーはアートの価値基準の究極は道徳的なものであると断言している。そしてアーティストの「美徳とは品格の、自己に対する正直さの美徳である」(同書 p.179)という。しかしこの問題は一筋縄ではいかないということもちゃんと承知している。「というのも、だます意図はなくても、そして正直であろうと熱烈にひたすら望んでいるにもかかわらず、アートの詐欺師となる可能性もまたあるからである」(同書 p.180)。しかしこれらを前提としながらも、ハクスリーは、なぜピエロの『復活』が世界一の絵なのか、ピエロに対する賛辞をこれでもかと繰り広げる。このへんの美学と倫理学との関係についての議論は次章でも出てくるので、このへんで止めておく。
ダントの解釈した『復活』に戻ると、たしかにこのフレスコ画はキリストの顔を正面から描いている。しかし、その視点の高さから見えるはずの石棺の上面は見えないので、下部の兵士たちを描くときは、視線は石棺をやや見上げる位置にまで降下された。画面の上部と下部では消失点が違うので、遠近法について相当な知識を持っていたピエロにしては、少し不思議な感じがする。しかしこれにはこの神秘の主題を描くにあたって、哲学的あるいは宗教的な意味が込められているのかもしれない。また兵士たちは皆眠りこけているというが、右の緑のヘルメットの兵士は、仰向けにのけぞっていて、非常に不安定な姿勢である。この姿勢ではどう見ても眠っているようには見えない。顔の向きからするとキリストの顔を見ているようでもある。だとすれば、この兵士はキリストの復活の目撃者である。しかし、福音書には復活を目撃した人間については、何も書かれていないので、何とも言いようがない。ちなみに、墓にもたれて眠っている左から二番目の兵士はピエロ自身の肖像であると言われている。
それから、ダントは触れていないが、背景に描かれた風景についてである。左側には枯れ木が、右側には葉の茂った若木が描かれている。これはどう解釈すべきなのか。死の世界から生の世界への移行を、つまりキリストの死からの復活を、背景においても象徴的に繰り返しているのか。あるいはキリストの復活を介する「人類の新たな出発」を象徴しているのだろうか。私はクリスチャンではないので、キリスト教の教義については実感として理解していない。それだからかもしれないが、ダントの解釈がいまひとつ納得いかないのである。
ダントは、復活のキリストの顔について、「放心した勝利の面差しがある」と言い、キリストはまだ肉体を持っているけれども「純粋な精神であるかのよう」だと言う。しかし私にはそのようには感じられない。キリストの姿は光輪や脇腹、手足の甲の傷がなければ、どこかで見かけそうな筋肉質の壮年男性としか見えない。「純粋な精神」というのは少し言いすぎだろうと、思ってしまう。むしろハクスリーの次のような記述の方が説得力があるように思う。
「しかし、われわれの目の前で、墓から立ち上がる存在は、伝統的宗教のキリストというよりもプルタルコスの英雄に似ている。身体はギリシアのアスリートのように、完璧に発達している。・・・顔は厳しく、そして哀愁を秘めていて、眼は冷たい。全身には、身体的、知的なパワーがみなぎっている。それは、何百年ものあいだ、墓の下に埋もれていた古典的理想の復活であり、しかも古典期の実際よりも、信じられないほど、はるかに壮大で、はるかに美しい理想である」(同書 p.183)。
ここでは、宗教画を理解、解釈するにあたっては、信仰を持っている人と、そうでない人とでは、絵の見方も、解釈の次元も、まったく異なるものであることを、指摘するにとどめておく。
二つ目のエピソードは、ジョージ・エリオット【Mary Ann Evans 1819-80 George Eliot はペンネーム。イギリスの小説家、ジャーナリスト、翻訳家】からの引用である。一八六六年、彼女が友人に宛てた手紙の一節。
「それは困難な問題です。その難しさが私に迫ってきます。私は、いくつかの理念に完全な形を与えようと、何回も何回も厳しい努力を経験してきました。あたかもそれらが、精神としてではなく、まず肉として、私に開示されたかのように受肉させようと。美的な教えはあらゆる教えのなかで最高のものだと思います。なぜなら、それは複雑さの極みにおいて生命を扱うからです。しかしそれが純粋に美的なものにとどまるならば、― それが、絵から図式へと堕落するならば、― それはあらゆる教えのなかでもっとも不快なものとなります」(p.131)。
ダントはこのテキストのなかに、カントのアートに関する考えが、まさにこだましていると感じたのである。
第六章
美学の将来
この章は唯一、本書出版前に発表されているテキストである。ウェッブ上にPDFファイルとしてアップされているので、ダウンロードして読むことができる。謝辞によれば、「コーク大学で開催された国際美学会の基調講演として使った」(p.161) とある。ウェッブ版をざっと眺めると、本書のテキストとは多少異同があるようだ。ウェッブ版にはジャック・ルイ・ダヴィッドの『マラーの暗殺』に触れたところがあるが、本書の中ではカットされている。おそらく他の章との重複を避けるために、書き換えたものと思われる。どこが削られ、どの部分が加筆されたのか、詳細に検討してみるのも面白いかもしれない。
美学とは何か、をイメージとして理解させるために、ダントはまたしても友人のイラストレーター、スタインバーグの作品を例に引いている。それは一九九二年にアメリカ美学会の創立五〇周年を記念するため、当時、会長を務めていたダントが、スタインバーグにポスターのデザインを依頼して制作してもらった作品である。
ダントは次のように説明している。
「Eは現在のフォント以上に、美しく高められた、もっとエレガントなEを夢見ている。この高尚なEは上の吹き出しのなかに示された。・・・そしてがっしりしたEは今も二重母音になりたいと夢見ている。ちょうど、身体鍛錬の広告で、四〇キロの痩せ男が、少女たちを気絶させる腹筋と上腕二頭筋を夢見ているのと同じことである。要するにそれが美学であった」(pp.136, 137)。
少し説明すると、二重母音Æ は、美学を意味する英語、Æsthetics の頭文字である。
ダントにとって美学とは、かかるものであったので、美学にはあまり将来はないようである。ダントの言葉によれば、「美学という言葉で私は次のことを意味している。すなわち、なぜこちらの方が好ましく見えるのかという理由を添えた、姿の見せ方」ということになる。私は大学時代に一応、美学を学んだ者だが、ダントがあまりに狭く美学を捉えていることに、少々驚いた。研究したわけではないので、詳しいことはわからないが、日本語の「美」には、感覚的(視覚、聴覚、味覚)な美しさも、精神的な美しさも両方の意味を含んでいる。日本語ではたとえば心ばえが美しいなどという。だから西欧のエステティックとは違うのかもしれない。前に書いたように、エステティックの原義は感覚に関係する事柄である。でも現在の意味としては「美【beauty】に関する」、あるいは「美の鑑賞に関する」形容詞である。この場合精神的な美しさは考慮されないのだろうか。たしかに、辞書を引いてみると、beauty の字義は主に視覚による美しさをいうみたいだ。まあ、そういうことなのだろう。
マルセル・デュシャンがアートに美的要素を持ち込むことを拒否したことで、美学はアートの核心から辺縁部へ遠のいた。彼はレディメイドについて次のように語った。「私がどうしてもはっきりさせたかった点は、これらレディメイドの選択については、美的な喜びによってはまったくなされていないということです。その選択は、視覚的な無関心と、と同時に、良きにしろ悪しきにしろ趣味の完全な不在と・・・事実上の完全な感覚麻痺との反応に、基づいていました」(p.143)【一九六一年ニューヨーク近代美術館で行なったトーク】。これが本当だとすれば、ダントの美学に出番はない。ということはデュシャン以後のアートについて論じるとき、美学は用なしである、ということを意味する。デュシャン以後というより、クールベのリアリズム宣言以後と言っても、いいかもしれない。しかし、「感覚麻痺」などと過激なことをいうデュシャンだから、こういった事態がデュシャンによって先鋭化されたことは確かだろう。
美は眼に見えない。このことについては、私はあたり前のこととして考えてきた。もちろん眼に見える美もある。しかし美に序列があるとすれば、それは最下位に位置すべきものである。
デュシャンについて考えてみよう。レディメイドを選択するにあたっては、美は基準ではない、それどころか、感覚的な特性は何によらず、選択の基準ではないという。感覚麻痺が基準と言われても、にわかには信じられないけれど、ここは、ほう、そうですか、と受けておこう。しかしデュシャンに尋ねなければならないことがある。それはレディメイド、たとえば『自転車の車輪』を見せるときに、きちんと彫刻台もどきの木製のストゥール(これもレディメイドである)に載せる加工を施して、彫刻然として見せているけれど、それはなぜなのか。また便器の『泉』を展示するときも、本来便器の背にあたる部分を下にして寝かせて見せる工夫をしているのは、なぜなのか。実用的な文脈から外して、展示ギャラリーに持ち込むということだけで、見せ方はどうでも良かったのではないか。その方がデュシャンの言葉に整合するのでないか、という疑問である。あのような見せ方をされると、ダントの言う美学そのものを実践していることにならないか。このように見せる方が、そうでない場合よりも、かっこいいし好ましいのではという、本来の美学的意識が働いた結果なのではないか。それとも、デュシャンはレディメイドを選択することと、それを展示ギャラリーで見せることとでは、問題は別であるとでもいうのだろうか。
それに対してウォーホルの『ブリロ・ボックス』は、ダントの証言にもある通り、ギャラリーを「スーパーマーケットの資材置き場のように」(p.36)して展示した。ただし作品はレディメイドではなく、精巧に作られた模造品である。作品単体としては、デュシャンの方が過激であったけれど、展示の仕方においては、ウォーホルの方が過激であった。ダントはこのような視点はまったく持たなかったけれども、これはダントのこの本を読んで得た、私の新たな発見であった。
デュシャンのレディメイドの見せ方の核心には(ダント的)美学がある、と言ってもよさそうである。しかしデュシャンに関して重要なことは別にある。それはアートにそれまでにはなかった価値を導入したことである。そしてその新たな価値が一〇〇年後の現代も生き続けていることである。デュシャンが導入した新たな価値とは何か。それは言うまでもなく、レディメイドである。生活世界に使用されている既存のオブジェクトを、その文脈から切り離して、アートの文脈に置き換えることで、既存のオブジェクトがアートになる、ということを実現したことである。それとともに、アートとは感覚与件というよりもむしろ、認識与件であると、アートそのものの存在の在り方を更新したことである。ダント的に語れば、デュシャンのレディメイドには、アートの存在論的意味が受肉されているのである。私にとっては、このような哲学的な考察、解釈の運動、これが美学なのである。
美は眼に見えないのである。あの人は美人だと言うとき、たしかにこれは顔形がきれいに整っているという、まあ見た目のことである。しかし、あの人は美しい、と言う場合、容貌のことを言っているのか、生き方やものごとに対する対処の仕方、あるいは心ばえのことを言っているのか、文脈で判断しなければならない。美はオブジェクトばかりではなく、人格についても言える概念なのである。たとえば自己犠牲の美しさについて語ることもできる。私は青春時代、フロイトを読みふけっていたので、自己犠牲の精神については懐疑的であった。どのような行為であろうと、意識下の自己中心的な欲動に動かされての行為だとすれば、結局はエゴイズムである。自己犠牲なんてありえない、と考えて、人間不信に陥っていた時期もあった。ダントには叱られそうだが、イエスが人類の救済ために犠牲になったという、キリスト教の教義にしてみても、神はそうでもしなければ、どうしようもなかったという、神の事情があったのだろう。神が自らをかたどって創造したシロモロが、救いがたいほど出来損ないであったのだから、神としては、自ら地上に降り立ち、福音を説き、肉として死んで、自ら創造したわれわれ出来損ないの救済計画を立てたのである。これは結局は神にエゴがあるとすれば、神自身のエゴイズムではなかったか。ありがたいことに、歳の所為か、近頃はそんなひねくれた考えをすることは少なくなった。
ダントはこの章の終わりの方で、チャールズ・サンダース・パース【Charles Sanders Peirce 1839-1914 プラグマティズムの父として知られたアメリカの哲学者、論理学者、数学者、科学者】の美についての考え方を紹介している。パースについては、松岡正剛が「千夜千冊」のなかで、次のように紹介する。「ある学者によると、アメリカが生んだ最も独創的で、最も多彩で、しかも2位以下に大きく水をあけた唯一無比の知性だといわれている」。ダントもまたパースのことを天才と呼ぶが、パースの美についての考え方は美学を考える上で、とても重要なことと思われるので、ここでも引用紹介しておきたい。
パースは規範科学を、論理学、倫理学、美学という三つの領域に分類した。論理学は真理に、倫理学は行為に、そして美学は感情にそれぞれ対応するものである。ダントにとって、驚くべきことに、パースは美学をその中でもっとも基礎的な研究であるとしたのである。「論理学は倫理学に基づき、倫理学のより高次な展開であると、パースは信じた」(p.152)。そして美学はその倫理学の基礎であると考えた。このことは何を意味するのか、これだけでは深く理解することはできないけれども、なんとなくではあるが、大事なことを言っているような気がする。「パースは『間違いなく美的な悪いもの、そのようなものは存在しない、・・・存在することになるものはすべて、さまざまな美的特質であろう』という結論を導き出す」(p.153)とダントは言う。そしてパースのジョークを紹介している。「私は美的判断において、真のケンタッキー人がウィスキーについて考えるのと同じように考える傾向がある。つまり、おそらく高級、低級の区別はあるかもしれないが、しかし美的には、すべてはグッドである」(p.153)とパースはおどけて書いている。私はケンタッキー人がウィスキーについて考えていることを初めて知ったが、最後の「美的には」の意味として、味覚的にはと考えると、もっと分かりやすいかと思う。つまり、ウィスキー、この場合バーボンかもしれないが、高級バーボン、安物バーボン、いろいろあるけれども、みんなそれなりに美味しいよ、という意味だろうと思う。パースはそれを存在するものすべてに適用する。存在するものは千差万別、いろいろあるけれども、すべてはそれぞれに美的特質を持つ、という結論である。
ダントは、パースの美に対する考え方は、自然に対する感覚的なものだとして、物足らないようである。アートの美は「精神のもとに生まれ、【精神のもとに】生まれ変わる」(p.154) 美であるというヘーゲルとは違うと主張し、パースの美学は「アートの創造性をスキップする」(p.154)と結論づけているが、果たしてそうなのだろうか。
私には、パースが感覚的な美しさのことだけを言っているとは思えない。美学が倫理学の基礎をなすというパースの考え方が、私の憶測の根拠である。倫理学が、規範とすべき人間の行為や考え方の研究だとすれば、その基礎となる美学が、たんに感覚的な美的判断とは思えないからである。実際、パースがどのように言っているか、少し見ていこう。パースは美学が果たして規範科学であるかどうか、自信を持って言うことはできないけれども、と断ってから次のように書いている。この部分は一九〇三年にハーヴァード大学でおこなわれたプラグマティズムに関する連続講演の第五回「三つの規範科学」からの抜粋である。この論文は The Essential PEIRCE vol.2 (1893-1913), Indiana University Press, 1998. に収められている。電子出版の書籍を参照しているため、ページ数は分からない。
「しかし規範科学が美学、倫理学、および論理学に分けられると仮定すれば、この区分が三つのカテゴリーにしたがっていることは、私の観点から、容易に看取される。というのは、規範科学一般は目的への事象の一致の諸法則に関する科学であり、そこで美学は情態の性質を具現することを目的とするような諸事象を考察し、倫理学は行為を目的とする諸事象を考察し、そして論理学は何かを表象することを目的とする諸事象を考察するからである」(米盛裕二編訳『パース著作集1 現象学』勁草書房 p.190)。
上の訳文で、「情態の性質」と訳された語は、qualities of feeling である。「美学は、感情のさまざまな質を具体的に表現する embody ことを目的とする事柄を考察し」と言えば、少しは分かりやすいかも知れない。また、論理学の考察対象について、「何かを表象することを目的とする諸事象」とあるのは、これも分かりにくいかもしれない。このテキストの後段のところで、パースは「論理学の核心は論点 arguments の分類とその批判である」と言ったり、また前段のところでは、「論理学は論点を分類し、そうすることで真理のいろいろな〈種類〉を認識する」と言っているところから判断すれば、「何かを表象する」という言い方のなかには、何かを言い表して、論点を分類し、批判する、すなわち、真理の種々相を識別する、という意味まで含まれていると思う。
それはさておき、パースは三つの規範科学のそれぞれの考察対象をこのように規定したあと、次にそれらの相互関係について切り込んでいく。私の理解したことを書くとすれば、次のようになる。論理的な正当性の基盤は倫理的な正当性にある、という信念の根拠は、パースによれば、論理を展開するにあたっては、合理的推論をもってするわけだが、それが妥当かどうかは、精神の自発的、意図的な働きによる承認が必要である、という。少しわかりにくいが、推論が妥当かどうかは、自己コントロールのもとにおける自発的行為としての承認が不可欠であるということを言っているのだと思う。そして「〈意図的行為 voluntary act の承認〉は〈道徳的〉承認である」(同書 p.191)から、「論理的正当性 the logically good は道徳的正当性 the morally goodの特種のもので」(同書 p.192)あると、結論付ける。またパースは精神の働きについて、「髪の毛が伸びるのを統制できないのと同じように、精神の働きにもわれわれには全く統制できない働きがある。それらの働きが妥当であるとか妥当でないというのは馬鹿げている」(同書 p.191)と断って、私たちのコントロールの及ばない、精神作用があることを指摘している。だから、倫理的承認につながる、自発的な精神の働きというのは、言うまでもなく、それ以外の、私たちのコントロールのもとにある論理的思考についての話である。
次に、倫理的正当性の基盤は、美的正当性にある、という信念の根拠は、パースによれば、「一方、〈熟慮的に〉採択された ― すなわち、〈合理的に〉採択された ― 行為の究極的目的というのは、[・・・]〈賞賛すべき理念〉でなければならず、それはそのような理念が有し〈得る〉唯一の種類の正当性 ― すなわち、美的正当性 ― を有するものである。この観点から、道徳的正当性 the morally good は美的正当性 the esthetically good の特種のものと思われる」(同書 p.192)ということになる。つまり、慎重に考えぬかれた私たちの振る舞いの究極の目的は何かといえば、間違いなく「賞賛すべき理念」のはずである。そして「賞賛すべき理念」に可能なただひとつの価値は、美的価値である。だから倫理学の基礎には美学がある、という筋立てである。だとすれば、ここでいう美的価値にはどうしても、ものの外観を超えた、内的な美のことを想定しなければ、話は通らないと、私は思う。
以上のことを受けて、パースの結論は以下である。「もしこの考え方が正しいとしたら、道徳的正当性は美的正当性の特種のもので、つまり美的正当性にある特殊の要素を付加することによって形成されるものであり、そして論理的正当性は道徳的正当性の特種のもので、つまり道徳的正当性にある特殊の要素を付加することによって形成されるものである。[・・・]論理的正当性の本性を分析するためには、われわれはまず美的正当性の本性と、特に道徳的正当性の本性を明確に理解しなければならない」(同書 pp.192, 193)。
次に問題となることは、では美的正当性の本質とは何か、という難問である。パースは、結論として、美的特性には無限の多様性があるけれども、純粋に美的な究極、つまり美の極みというようなものは存在しない、と考えている。しかし、パースのこの辺りの議論はどうも生煮えの感があって、心にストンと落ちてこない。私としてはこの問題をこれ以上深めることができないので、尻切れトンボで申し訳ないが、ここまでである。
ところで、ダントのおかげでパースを少しかじることになったのだが、パースの規範科学の議論よりも、私には、パースの連続主義(Synechism)の考え方のほうが、はるかに興味深かった。つまり、物質と精神とは違うものではなくて、連続しているというのである。ダントの第三章の主題である身体問題とも深くつながるものであるから、私としては、第三章でパースの連続主義を話題にしてもらいたかった。ダントが紹介してくれなかったので、ここで少し連続主義について触れることにする。
まずわれわれの感覚についての連続主義をパースは分かりやすく述べているので、引用しよう。
「われわれが今日経験する感覚的な質、たとえば、色、香り、音、またあらゆる言葉で表現されているかずかずの情態(フィーリング)、たとえば、愛、悲哀、驚愕などは廃墟と化した太古の質連続体の遺物にすぎない、とおおよそ考えざるをえない。それはさながらここ、かしこにそびえ立つ二、三の円柱が、このあたりにバシリカ会堂や寺院の建ち並ぶ旧世界の広場がかつては壮大なアンサンブルを成していたということを証拠立てているかのごとくである」(遠藤弘編訳『パース著作集3 形而上学』勁草書房 p.111)。
この引用を含め、『パース著作集3』からの引用については、原文を確認できていない箇所がある。だからその部分のそれぞれの訳語の英語が何であるか、確かめられない。しかし次に上げる、感覚の連続性について語っている引用は、一八九二年に執筆された「精神の法則」というエッセイにあるので、原文にあたることができた。それで自分で訳してみた。「もろもろの感覚には強い連続性があるということ」と題された箇所である。
「 連続的に推移する時間は、論理的に、それ自体とは別種の連続性を含む。時間は、変化の普遍的な形式として、変化をこうむる何かがなければ、存在することはできない。そして時間的に連続する変化をこうむるためには、変化可能なもろもろの質の連続性がなければならない。感覚に内在する質の連続性については、私たちは現在、あやふやな概念しか形成できない。人間精神の発展は、実際のところ、すべての感覚を消滅させてきたので、ばらばらでまったく異なっているように思われる、音や色彩、臭い、暖かさなどといった、いくつかの散発的な感覚しか残っていないのである。色彩について言えば、感覚の3次元の広がりがある。元来、すべての感覚は同じように結合されていたのではないか、だからその次元の数は無限であったと推測される。というのは発展するということは、本質的に可能性を制限することであるからだ。しかし感覚に数多くの次元があるとすれば、いろいろな要素の強度を変化させることによって、可能なすべての変種が獲得できる。したがって、時間は、論理的に、感覚の強度の連続する領域を想定する。その結果、連続性の定義により、どのようなものであれ、特定の感覚が存在する場合、それとは無限小に異なる、あらゆる感覚の無限小の連続体が存在するということになる」(The Law of Mind, in The Essential PEIRCE, Selected Philosophical Writings, Vol. 1 (1867-1893), 1989 Indiana University Press, pp.323, 324.)。
私たちの五感が、また感情が、もともと連続体であり、「かつては壮大なアンサンブルを成していた」というイメージは鮮烈である。そしてパースのこの考え方に反論する経験上の証拠も見当たらないので、おそらくそういうことなのだろうと、納得せざるを得ない。私たちの感覚が進化、分化していって、現在のような五感に分かれ、それぞれの感覚を明確に意識できるようになった現状と比べて、感覚が未分化の連続的な状態であったときの意識がどのようなものであったのか、これは想像不可能である。しかし、嗅覚、味覚、聴覚、視覚、触覚が連続的に変化する感覚として存在した、という考えは、音響に色彩を感じたり、逆に形や色に音を聴き取ったりする共感覚を持つ特殊な人間が、実際に存在していることを考えれば、説得力のある仮説として傾聴に値する。ではそのときの未分化の感覚をとおして感じる、まだ人間に進化する以前の生命体としての意識はどのようなものだったのか、それはもう夢想するしかない。充足感に満ちた、彼我を超えて自足する、感覚宇宙として、自らを意識する存在者、感覚することだけが存在意義であるような、そのような存在、なのか。
パースの唱える連続性は感覚にとどまらない。物質と精神との関係についても、驚くべき主張を展開する。たとえば次のような主張である。
「今や可能な限り物を連続的なものと考えるべきだという、連続性の原理あるいは公準に従って、われわれは精神と物質の性質の間に連続性を考え、物質はとくに高度の力学的規則性あるいは決まりきった方式によって作用せざるをえないような硬化した習慣を有する精神にほかならないとみなすべきである」(遠藤弘編訳『パース著作集3 形而上学』勁草書房 p.123)。
またパースは、一八九二年の論文「精神の法則」の後半部分にある「コミュニケーション」と題された箇所で次のように、物質と精神の関係について述べている。
「 この論文のはじめのところで書いた理論と一貫性を持たせるためには、私は次の主張をしなければならない。ひとつの観念が唯一影響を受けることができるのは、その観念と連続する関係にあるひとつの観念からだけである。ひとつの観念以外の何ものによっても、それはまったく影響を受けない。これによって、私は、先ほども言ったように、他のもろもろの根拠にもとづいて、次の発言をせざるを得ない。すなわち私たちが物質と呼ぶものは、完全に死んでいるのではなく、習慣によって硬直化した精神にすぎない、ということである。それは依然として多様化の要素を残している。そしてその多様化のなかに生命がある。ひとつの観念が、ある精神から別の精神へ伝えられるとき、それは自然の多様な要素の組み合わせのもろもろの形式によってなされる。いわば、なにか興味をそそられる不思議な対称によってであり、あるいは柔和な色彩と上品な香りの結合によってである。そのようなもろもろの形式に対しては、機械的なエネルギーはまったく適用されない。それらの形式が永遠だとすれば、それはそれらが受肉する霊的精神として永遠なのである。そしてそれらの起源はいかなる機械的必然性によっても説明することはできない。それらは受肉された観念である。そしてそのようにしてのみ、それらは観念を伝えることができるのである。色彩や音調のような基本的な感覚がどのようにして起こるのか、心理学の現状では、それを正確に言うことはできない。しかし私たちは知らないけれども、それらの感覚は本質的に、いわゆる二次的な他の感覚と同じ仕方で起こると、仮定することは勝手である、と私は思う。視覚と聴覚を問題にする限り、私たちは、それらが思いもよらない複雑な振動によって唯一起こされる、ということを知っている。そして化学的なもろもろの感覚も、おそらくそれ以上単純というわけではない。末梢的なもろもろの感覚の中でも、最も精神性の低い、圧迫感でさえ、それが起こるためには、一見単純に見えるけれど、分子とその引力を考察すれば、十分複雑だとみられる条件が必要である。私の出発点である原理原則から言えば、私は次の主張をしないわけにはいかない。これらの感覚が神経に伝達されるのは連続性によってであり、その結果、もろもろの刺激それ自体の中に、これらの感覚と似た何かがなければならない。この主張が大げさだと思うなら、次のことを思い起こす必要がある。それが、感覚を説明する唯一可能な方法であり、そうでないとするなら、それは、絶対的に説明不能で究極の一般的事実だと宣告されなければならない。ところで、いかなる状況下でも、健全な論理であるなら、正当化を拒絶する一つの仮説、それが絶対的な説明不可能性という仮説である。」(from The Law of Mind, in The Essential PEIRCE vols.1, pp.331, 332)
この引用でダントとの絡みから特に気になるのが、受肉するという用語である。ダントは第一章で、アートは「受肉された意味 embodied meaning」であると、アートを定義した。パースはある観念が精神から精神へと伝達されるその根拠として、その伝達形式が永遠のスピリットを受肉している、つまり霊的精神を具体的に表現しているからだといい、それは「受肉された観念 embodied ideas」であるという。私には、ダントとパースは同じことを言っているとしか思えない。ダントもまた結局は、作品に「受肉された意味」を通して、私たちの精神にアートが伝達される。すなわち、アートは精神間の伝達形式の一つなのである。パースは観念一般にそれを敷衍して、伝達形式に「受肉された観念」を介して、精神から精神への伝達が可能になると、言っているのである。
物質と精神の関係については、パースは一八九二年の「人間のガラスのような本質」のなかでは、次のような言い方もしている。
「 もろもろの一般的観念の物質的関係を考察することがまだ残されている。ここでは次のことを考えれば良いだろう。物質が精神の特殊化に他ならないとすれば、物質に影響を与えるものは何であれ、規則正しい法則に従って、それ自体物質である、ということになる。しかし精神はすべて、直接的に、あるいは間接的に、物質すべてとつながっていて、多少とも規則正しく振る舞う。その結果、精神はすべて、多少とも、物質の性質を分かち持つ。だから、物質の精神的なもろもろの側面と物質的なもろもろの側面とを絶対的に異なる二つの側面であると考えることは間違いである。事物を外側から見れば、つまり、他の事物との作用と反作用の関係を考察すれば、それは物質としてあらわれる。事物を内側から見れば、つまり、感情のような、その直接的な性格を注視すれば、それは意識としてあらわれる。次のことを思い出すとき、これら二つの見方は一体化される。すなわち、精神のあらゆる規則性のような、機械的なもろもろの法則は、習慣化の傾向それ自体を含めて、獲得されたもろもろの習慣に他ならないこと、また習慣のこの作用は一般化に他ならなく、一般化はもろもろの感情の広がりに他ならないこと、これらを思い起こせば、二つの見解は一体化されるのである。」(Man's Glassy Essence, in The Essential PEIRCE, vol.1, p.349)
さらにパースはまた別のところで次のように言う。
「哲学的な仮説を形づくるときの最高の手引である連続性の原理からすれば、われわれはこの理論のもとに物質を精神とみなさねばならない、つまりそのもろもろの習慣が凝固してしまって、もはや新たな習慣を形成したり、古い習慣を失ったりする力を喪失してしまった精神とみなされるべきであるし、一方精神は極度の複雑さと不安定性をもった化学上の一種類とみなされるべきである。精神はもろもろの習慣を得たり棄てたりする一つの習慣を目立って身につけている」((遠藤弘編訳『パース著作集3 形而上学』勁草書房 p.94)。
このようなパースの考えを読んでいくと、物質は活力を失った精神であり、反面、精神は新たな習慣を形成したり、取捨選択することができる、偶然性にさらされた不安定な物質ということができる。ということは物質性を離れて精神は存在できない、ということであり、そもそも、物質そのものも精神性が皆無では存在できないのである。「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける」という運動の第一法則に身を任せるしかないと思われている物質ではあるが、実はまだ多様化の可能性を残した精神である、ということなのだ。これは連続性の原理をとにかくまず受け入れ、信じることにしないかぎり、なかなか理解することは難しい。しかし現実的に、この宇宙には物質と精神が存在するのであり、両者は相手がいないかぎり単独では存在できない、ということが理解できるならいいのだろうけれど、たしかに精神については物質がない限り存在しないだろうことは経験的に了解できるけれど、物質の方もまた精神の成れの果てということが、どうも理解困難なところである。
パースの連続主義はまだつづく。意識の連続性である。私たちの意識は連続的に存在する。つまり私はあなたであり、あなたは私である、という理解こそ、事の真相である、とパースは主張する。以下に引用する二つの文章は一八九三年の論文「連続主義の視点からみた不死性」(Immortality in the Light of Synechism in The Essential PEIRCE vol.2 1893-1913, 1989 Indiana University Press)が出典である。
「またいかなる連続主義者も『私は徹頭徹尾私自身であって、君では全くない』と言い切ってはならない。[・・・]第一に君の隣人はある程度は君自身である。しかも心理学を深く研究することもなしに君が信じるであろうよりも遥かに高い程度に君自身なのである。実際君が君自身のものと思いたがる自我性は大部分もっとも卑猥な虚栄の迷妄である。第二に君に類似していて、しかも同じような境遇におかれているすべての人々も、君の隣人が君であるのと全く同様にとはいえないまでも、ある程度は君自身である」(遠藤弘編訳『パース著作集3 形而上学』勁草書房 p.141)。
そしてさらに、パースの連続主義は死をも超越する、かに見える。
「連続主義は死がやって来たときに、身体的意識すらたちまち停止すると信じることを拒否する。観察しうる与件がほとんど欠如しているときに、その身体的意識(carnal consciousness)がどのようであるかは判断し難い。[・・・]しかしながら、さらに連続主義は身体的意識が単にその人物の少部分に過ぎないことを認識している。すなわち第二に社会的意識(social consciousness)なるものが存在する。それによってひとりの人間の精神は他人の内部で具現せられる。そしてまた当の社会的意識は生きて、呼吸を続け、浅薄な観察者が考えるよりも遥かに永く存続するのである。[・・・]また以上述べたことがすべてではない。人間は精神的意識(spiritual consciousness)をもちうる。この意識は全体としての宇宙内で肉化される一つの永遠的真理に人間を仕立てる。この意識は一つの理想形を成した観念として決して誤るはずがなく、来るべき世界において精神の特別の体現を成すべく運命づけられている」(同書 p.142)。
このようなパースの連続主義は、日頃私が漠然と考えていた存在に関する考え方に、明瞭な表現を与えてくれたので、私にとっては嬉しい発見であった。とくに、意識を、肉欲を含めた「身体的」、「社会的」、霊的という意味での「精神的」、に分類して、それぞれが段階を経て、空間を拡張していくという考え方は、素晴らしい。ダントが第一章でキーワードとして使用した embody という語がここでも使われている。ある人間のスピリットは社会的意識によって、他の人々のなかに受肉され embodied 、永続する。そして人間にはスピリットの意識があり、それによって人間は永遠の真理の一つとなる。そして全体として宇宙のなかに受肉される embodied 。このことは原型的なイデアとして必ず成就される。そしてそれは来るべき世界において、ある特別なスピリットの受肉 embodiment へと運命づけられている、という具合である。少し神秘主義的な傾向が強く出た感があるけれども、パースの連続主義は、ダントの問題意識と重なる部分もあると思うので、ここに紹介した次第である。
パースの神秘主義的傾向がどこから来たのか、伝記的な事実を見ておこう。パースは自分でも神秘主義的な傾きがあることを意識していた。その言い訳として、彼は「精神の法則」冒頭部分で、次のように述べている。
「精神生活の伝記の研究に関心を抱いている人びとのために、私は次のことがらを述べておこうと思う。私はコンコードの近郊 ― すなわちケンブリッジ ― で生まれ育ったのであるが、その当時エマソンやヘッヂそして彼らの友人は自分たちがシェリングから学びとった、またシェリングがプロチノスから、ベーメから、あるいはどんな人物かは神のみが御存知だが、東方の奇怪な神秘主義に蝕まれた何者かの精神から学びとったもろもろの観念を撒き散らしていたのである。しかしケンブリッジの雰囲気にはコンコードの超絶主義に抵抗するような多くの防腐剤が入れてあり、私が、いくらかでもそのウィールスに感染したという意識はない。それにもかかわらず、いくつかの培養された病原菌、その病の良性の形式が、それと気がつかぬ内に、私の魂に植えつけられ、長い潜伏期間を経たのちに、数学的諸概念によって、また物理学の研究における修練によって修正され、今になって表面に現れ出ることもおそらくありうるだろう」(同書 p.125)。
マサチューセッツ州コンコードはエマソン(Ralph Waldo Emerson 1803−82)が住んでいた土地で、ハーヴァード大学のあるケンブリッジからは、西北に車で三〇分ほどの距離である。エマソンは超絶主義を唱えたエッセイストであり詩人であった。エマソンの考えについて、もっとも有名な一節を引いて、パースとの関係を考えてみる。
「私たちは連続として、部分として、断片として、かけらとして生存している。しかしながら人間の内には全体の魂が、賢慮の沈黙が、普遍的な美があり、どのような断片もどのようなかけらも、それらと等しく関係している。つまり永遠の『一者』である。そして私たちが依って立つところのこの深い力、そして私たちすべてが到達できる至福の元であるこの深い力は、あらゆる時点で自足しており、完全であるばかりではない。見る行為と見られるもの、見る者と見られる光景、主体と客体、それは一つなのである。私たちは世界を一つ一つ見ている。太陽として、月として、動物として、樹として。しかしこれらは部分として輝いているが、その全体が魂なのである」(from Essay IX The Over-Soul in Essays: First Series 1841)。
大雑把な感想で恐縮だが、このようなエマソンの、経験と直観に基づく神秘主義に、曲がりなりにも理屈付けを行なったのが、パースの神秘主義である、と言うことができるかも知れない。
ところで、エマソンとウィリアム・ジェームズ(William James 1842-1910 アメリカの哲学者、心理学者。物理学者としても修練を積む。一九世紀アメリカの指導的思想家であり、もっとも影響力のあった哲学者のひとり。パース、ジョン・デューイとともにプラグマティズムの提唱者)の父ヘンリー(Henry James Sr. 1811-82 スウェーデンボルグの神秘主義を奉じていた神学者)とは親交が深く、エマソンはウィリアム・ジェームズの名付け親でもある。またハーヴァードの数学の教授であったパースの父親ベンジャミン(Benjamin Peirce 1809-80)もエマソンを中心とするグループの一員だった。ジョゼフ・ブレントの伝記『パースの生涯』(ジョゼフ・ブレント、有馬道子訳、新書館、2004年)には、パースの幼い頃、ケンブリッジのパース家の常連のひとりとして、エマソンの名が上がっている。また実際エマソンの演説を聴いたパースは子供心に感動もしている(上掲書 pp.94, 95)。だからパース自身もそのような雰囲気のなかで育ったことは確かであろう。スウェーデンボルグの神秘思想については、ヘンリー・ジェームズ(父)の著作を通じて熟知していた。パースは一八七〇年にヘンリー・ジェームズの『スウェーデンボルグの秘密』の書評を書いていることからもそのことが窺われる。さらに、エマソンはパースの最初の妻、フェミニズムに生涯を捧げたメルジーナ(Melusina Fay Peirce 1836-1923 アメリカのフェミニスト、著作家、教師、音楽批評家、オーガナイザー、活動家、特に19世紀の「家事生協」運動の陣頭指揮を執ったことで最もよく知られる)の歳上の友人でもあったので、二〇代のパースは実際エマソンと顔を合わせたこともあったかもしれない。それはさておき、パースの言葉に戻ると、数学や物理学によって修正を施されていて、いくら良性の病気と言ったところで、所詮病気には違いない、と突っ込みたくなるが、パースは、エマソンの超絶主義やスウェーデンボルグの神秘思想に大きな影響を受けていた、すなわち、そのウィルスに感染していたというのが、パースの言葉とは裏腹に、実相だったような気がする。
おわりに
ここまで各章にそって、ダントの言わんとする所を述べ、また私がダントのテキストのうち、気に入ったところをピックアップして、『アートであること』を紹介してきたが、ダントから離れて、私の興味に即して話を展開した箇所もいくつかあった。「はじめに」のところで、プラトンの『国家』に出てくるアーティスト不要論や空恐ろしい婚姻・養育制度を紹介したり、また第四章の「論争の終わり:絵画と写真の〈パラゴーネ〉」で、カンディンスキーの抽象絵画論を紹介して、絵画のモダニズムついて、グリーンバーグやダントとは違った視点から眺めてみたり、第五章の「カントとアート作品」のところでは、ダントのピエロ・デラ・フランチェスカの『復活』解釈に対抗して、オルダス・ハクスリーのエッセイを引用して、この作品の解釈の幅を広げてみせた。さらに前章「美学の将来」では、パースの連続主義について多くを割いたところなどが、その主な脱線である。しかしダントの論述がきっかけとなって、プラトンを読み直したり、今まで知らなかったパースという思想家をかじることができたのは、私にとってありがたかった。とくにパースを知ったことはダントのこの本を読んだおかげであり、それだけでも私にとっては儲けものであった。それほど私は今パースの思想に惹かれている。これからパースを勉強することで、私はどれほどの時間を費やすことになるだろうか。
ところで、パースがニーチェよりも四歳年長だという事実を知ったとき、私は不思議の念にとらわれた。ニーチェも好きで、翻訳だけれど、私はニーチェの全集を読んでいる。しかしニーチェの思想とパースのそれを並べてみると、パースの方が断然新しい。そう感じるのは私だけであろうか、人に訊いてみたいものだ。ニーチェの永遠回帰やあらゆる価値の価値転換、あるいはルサンチマンや距離のパトスなどの考え方は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて出現した心理学的な人間理解に属する。ドストエフスキーやフロイトと関連する時代思潮として整理することが出来る。そして彼らの思想はその時代の最先端を行くものであった。それに対して、パースの思想の特異なところは何かといえば、それが時代をはるかに飛び越えているところである。その射程は現代に、そして未来に及んでいるように思う。まだ手を付けたばかりなので、大きなことは言えないけれど、私の実感である。パースとニーチェはお互いを知っていたかどうか、私は知らないが、エマソンを介せば、関連付けることが出来るかもしれない。パースがエマソンのウィルスに感染していたことは前章で述べたが、ニーチェもまたエマソンを高く評価しているのである。しかしこの二人はあまりにも違いすぎる。
本書を読んで、興味深く感じられたこと、それはダントが敬虔なクリスチャンであるということである。作品解釈のはしばしにそのことがあらわれている。私を含めて、日本人が物事を考えるとき、自分の宗教的立場をバックボーンにすることは、まったくないのではないだろうか。私にはもともと特定の宗教の信者であるという意識はつゆほどもないから、そうなのだろうが、西欧の人々はその点において、日本人とは物事を考える前提が違っているようだ。作品を解釈するときに、ダントには宗教的なバイアスがかかっているように思えて、不満なところもあり、またかえって、そこのところが個人的には、人間的におもしろいと感じたことも事実である。普通は、どんなに敬虔な信者であろうと、学問的著述をする場合は、そういったバイアスは表に出ないよう配慮するのだろうが、ダントの場合は比較的率直なのである。ダヴィッドの『マラーの暗殺』の解釈には特にそのことが前面に出ていたが、ピエロの『復活』にしても、ミケランジェロの『システィナの天井画』にしても、ダントのキリスト教観、特にイエスをこの世に送り出した神の計画、哀れな人類にたいする救済の思想が突出しているように思えた。これまで私が読んできたヨーロッパの哲学書で、このような印象を持ったことはなかったので、これもまたダントの魅力の一つとして、指摘しておきたい。
最後に、本書の第六章章末にあるダントの文章を引用して、この読書感想文を終えるとしよう。ダントの美術批評家としてのスタンスと、その出自が簡潔に述べられている。
「『ネイション』誌の美術批評家として二十五年間にわたる私の努力は、ニューヨークのほとんどの批評家の保守的な趣味が取り上げるアートとは異なるアートを叙述することにあった。私のパースペクティヴから言えば、ほとんどの場合、美学はアート・シーンに不可欠ではなかった。すなわち、私の批評家としての役割は、作品に何が関与しているかを、 ― 作品の意味するものを ― 語ることだった。それから私の読者に、これを説明することに、どれほどの価値があるかを、語ることだった。それは、ちなみに、ヘーゲルが行なったアートの終焉についての議論を読んで、彼から学んだことであった」(pp.155, 156)。
最終変更日:2016/04/09