「鈴山キナコ ひとり七人展」の展評「『鈴山キナコ@ひとり七人展』によせて」を中島順一さんから寄稿いただいました。
展覧会のお知らせ
RECOLLECTIONS 根石院と爆薬姐 鈴山キナコ ひとり七人展
2020.10.9 fri - 11.15 sun 11:00-18:00
金土日 11:00-18:00、月〜木はお電話・メール等で連絡いただきオープンします。
鈴山キナコは、この8月までOperation Tableで開催された展覧会「根石院と爆薬姐」のアーティストのひとり。「根爆展」の後日談ともいうべきこの展覧会では、鈴山キナコがこれまで駆け抜けてきた凄絶なる多様人格の跡を、早くも根爆展の回想を交えつつ、たどってみます。なんといってもいくつもの異業種をまたに掛けアーティスト・ネームやペンネームも複数に使い分けてきた、物語ほども奇なるキナコの世界がここに出現します。会期中、パフォーマンスやライブも企画されます。
8月末「根石院と爆薬姐」展最終イベントのため、根石院こと久保田弘成も北九州に数日滞在していました。その際、キナコは、根石院に俄弟子入りし、Operation Table近くの板櫃川にて根石探しに挑みました。またたく間に根石を発見する師匠についてキナコもまた初根石を発掘していました。それらの候補石は久保田が東京に持ち帰りましたが、なんとこれらにもすぐさま根立(ねたて)なる台座が与えられ、見事に根石院の仲間入りを果たしたと伝えられています。今回、「根爆・後日談」として、その板櫃川根石のひとつを久保田さんから特別出品いただきました。QMAC旧蔵の久保田ドローイングと「牛骨とシボレー」や、コレクションに新たに加わった根石とともにご覧いただけます。
参加アーティスト
1️⃣鈴山キナコ(クレイアーティスト)
2️⃣末永直海(小説家)
3️⃣桃の木舞(シアターSCANDALの女優・漫画家)
4️⃣雷華(全国巡業演歌歌手)
5️⃣ピャーポ(漫画家・小林よしのり秘書)
6️⃣末永直美(生コンデリバリーのおねえちゃん)
7️⃣メリー(赤羽ハリウッドのホステス)
「鈴山キナコ@ひとり七人展」によせて
中島順一(元北九州市立美術館副館長)
世に、美術展というものがある。美術展という言葉を忌避するならば、美術館とか、ギャラリーとか、その他の空間で、開催される、あれ、である。さて、美術展ないしあれが、実現するために必要なものとは、なんだろう。展示作品、展示空間、空調設備、学芸員、照明設備、空調設備、ひも、ねじ、キャプション、運送会社、それから予算やら、組織やら、それこそ無数のものが列挙できるだろう。
さて、美術展ないしあれが、成立するための必須のものとは、なんだろう。うえの記述には、わざとあげなかったのだが、それは、テーマであると、私は思う。個々の展示されたもの、そこから立ち昇るオーラ、見る人がその個々のオーラを、その人の意識の中に積み上げていって、最終的に結晶として形成されるもの、テーマ、理解されたり、誤解されたり、共感されたり、嫌悪されたり、感激されたり、失望されたりするもの、テーマ。
いやちがう、テーマではない、という声が聞こえる。それは、展示される作品であるというのである。作品無くして、テーマは表現されえないだろうというのである。この付近は、タマゴが先か、ニワトリが先かとの、議論にも似て、とりとめがないのであるが、私はやはり、テーマであると、考える。あるヤケノヤンパチになった学芸員が、なにも展示しないという企画展を開催したとしよう。会場には、白い壁のほかなにもないのであるが、テーマは生起している。そのテーマとは、「無」、あるいは「うつろ」、あるいは「なにもない」。ほら、展示のテーマが成立したでしょう。
さて、ここに、難物の展示がある。「鈴山キナコ@ひとり七人展」、この展示のテーマとはいったい何だろう。あるひとりの人物が、ななつの名前をつぎつぎにもち、ななつの顔をつぎつぎにもったという、怪人二十面相ならぬ、改名七面相。そのテーマはいったいなんなのか。
七人展の会場を彷徨うのは楽しい体験である。出展内容の詳細はこのページのほかのところに記載されているので、そこにゆずるが、私にとって初めて見るもの、キャバレーホステスの給与明細表、何枚もの生コン作業の記録表、それからウサギさんの本物の剥製などがあって、びっくりしたことを報告したい。
展示は全体として、よくまとまっていて、含蓄深く、わかりやすい。にぎやかなものをにぎやかに、楽しいことを楽しそうに、めまぐるしいものをめまぐるしく、複雑なものを簡潔に、たくさんの出来事がシンプルに詰め込まれていて、良い企画だと感じさせた。そこには、記録しようという熱意の存在を感じたことも、つけくわえておこう。
しかし、様々な情景の面白さに心をうばわれて、ここでの課題を忘れてはいけない。そうだ、この展示のテーマは何のかという、問い。
そのテーマは、その人生なのだという、答え、これは一応だれもが思い当たる解答である。それも、ユニークで珍しい人生の軌跡。しかしこれでは、何の答えにもなっていないことにすぐに気づくのだ。人生とはだれでもが持っているし、だれの人生でもそれなりにユニークなのだ。それに、人生というのは、結論やら、最後やらが、肝心なのではなく、その展開していく全体、変化の数々こそが、見どころなのだということになれば、全七巻からなる大長編ビルドゥングスロマーンを執筆しなければならず、これはこれでお手上げである。なぜこの人生なのか。
本人に言わせれば、その雪之丞七変化の原因は、すべて他人からの勧めに随った結果である。自分が望んだことではないと、いうのである。しかし聞く方はこの主張に無理があることにすぐに気づく。ふつうの人は、ほかの人からいわれたからといって、たやすく変貌できないし、そのたびごとに高い水準をもって成果をだすことも、不可能なのだ。小説を22冊も出すことが、他から言われたからといって、ふつうの人に可能だろうか。
人は、なんぴとといえども、名前を所有する。名前がないといえば、名無しさんと、名づけられる。人は、もし名前を失えば、その存在を失う。これは、普遍的で、恐ろしい真実だ。しかし、七つも名をもつ人は、まれだ。ここに何の必然があるのか。
七つの名前の一人の人物の、いったいどれが本物なのか。本名で名乗っている、生コン立会人、末永直美が本物なのか。いやいや、そのすべての七人の名前、七人の人物のすべてが本物だと、考えるのが妥当なところだろう。しかし、本物の存在を、ここで便宜的に、鈴山キナコことXさんとよぶことに、同意していただきたい。Xさんはだれなのか。
美術展に、個展という、形式がある。テーマとして、把握されるものは、個人様式。個人様式とは、そのひとらしさ。この様式は、さわることも、言葉で説明することもできないが、個展会場を巡って、その個々の作品を見たひとの、頭の中に、あるいは胸の内に、確かに形成され、存在するようになる。七人展は、美術展でもあるが、美術展そのものではない。そこに、テーマ探しの困難がよこたわっている。
私は、じつのところ、Xさんについて、ふたつの言葉を、上記の記述において、ひそかに使用した。ふつうの人ではない。まれである。このふたつの言葉である。しかし、この表現は、その輪郭を述べるにすぎず、中身を解明しているわけではない。謎は、ますます深まるばかりである。
言葉で表現できないものを、人に伝達する手段として、比喩という方法がある。たとえば、春風のような人物、というあれである。
私が、七人展の会場に入り、その雰囲気に身をひたしたとき、天啓のように私の胸裏におりたった人物がいる。だれか。草間彌生さんである。草間彌生さんは現在では超有名人になられておられるが、私が出会ったころにはそれほどではなく、知る人ぞ知るという存在ではなかったか。草間さんは、開口一番、「みんなのどぎもをぬく展覧会にしましょうねっ」と叫ばれた。草間さんはそのころ、さかんに小説も書いておられて、自分はそのうちに必ず芥川賞を獲得するのだと、言い言いされていた。彼女がそうつぶやくと、この人は本当に受賞するのではないかという気にさせられる。彼女から発信される信号、まちがいなく本物だと確信させられる光芒。
私の個人的な感想かもしれないが、Xさんと草間さんは、響きあうものがある。要するに似ている。なにか共通するものがあるのではないか。ここにXさんを解明するてがかりがあるのではあるまいか。
Xさんを表現する、たくさんの言葉がある。多産である、おびただしい、かぎりがない、山のように、大漁の漁船、多彩に、豊穣である、どこまでも、いつまでも、とらわれず自由に、などなど。
ここで話を飛躍させることを、ご容赦いただきたい。人の意識、心、魂、その不思議な領域のもっとも奥深いところ、普段はその存在が確認されないところ、人の原始からの記憶のすべてがつまっているところ、言葉のうしなわれるところ。名前をもたない存在が、神秘に輝くところ。それをある人は、アラヤ識と呼んだりする。人間の脳は理性的な範囲において理解力を発揮するが、アラヤ識は理性の限界を超えて認識し、察知し、悟ることができる。この識界は、たいていの普通の人には閉ざされている。ところが時にえらばれた稀人は、この不思議な世界に出入りすることが許される。アート、芸術の世界は、万人が平等な、民主社会ではない。そこは一部の選民が跋扈する場であるのだ。
Xさんの創造的な活動、群を抜いて活発な創造、勢い余る多数の局面、それはこの時空を超えた魂の領域との秘密の交流からもたらされたものではあるまいか。
もうひとつ、鈴山キナコことXさんについて、私の思うところを述べさせて、もらいたい。時間、ないしは時間の流れなどは、存在しないという哲学上の大真理、この真理を相当に早い時期から、彼女は理解するというより、体得していたのではないだろうか。時間があるという思いこみから、人間は様々な限界をわが身にもうけてしまう。過去からの縛り、未来からの縛り、そこから自由であれば、人はいくらでも自由にメタモルフォーゼしていける。そのかろやかな、天衣無縫なステップが、ひとりの、七人の顔に、結実しているのだ。
すでに、八人目の名前、九人目の名前も、用意されているらしい。川は流れ、流れゆく川辺の風景は様々に変わるが、川は変わらぬ一本の川である。これからも、いろどりゆたかな、笑顔あふれる、楽しい嬉しい、思いがけない、風景を見せていってもらいたい。
「しかもそのどれもが死なず、どれもが変身しただけで、常に新たに生まれ変わり、たえず新しい顔になり、それにもかかわらず一つの顔と新しい顔とのあいだに時間が存在しないように見えた」ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』より。
中島さんは元北九州市立美術館副館長、退官後、文士をめざして小説の執筆をはじめました。処女作は平野遼をモチーフにし、杉田久女も登場という『ある出会い・僧侶と絵画』(2013年北九州文学協会文学賞エッセイ部門優秀賞)、第二作は出身地の熊本を舞台にした歴史小説『火の国の白い往還』(2014年北九州文学協会文学賞小説部門佳作)、そして次作は、北九州市美学芸員時代に展覧会担当した草間彌生をモデルにした小説『青空の墓標』(2016年九州芸術祭文学賞 北九州市地区次席)を発表、翌2017年にも『暗い風』で北九州文学境界文学賞小説部門大賞を受けるなど、順調に文筆家の歩みをたどっておられます。