8月20日から3ヶ月に渡って開催してきました「草野貴世 rupakayaー色身」展、10月10日をもって終了しました。会期初めの頃と終了前の2度、ご覧いただいたとかげ文庫主人、後小路雅弘さん(北九州市立美術館長)に展評を寄せていただきました。
またご来場いただいた川浪千鶴さん、渭東節江さん、谷尾勇滋さん、そして草野さん自身が会場を撮影しSNSにアップロードされていました。その中から、ご了解いただき、ここにrupakaya アルバムとしてあげています。会場の余韻をどうぞお楽しみください。
草野貴世 rupakaya ― 色身 ―
2021年8月20日 fri. ~ 10月10日 sun. 11:00-18:00
ご来場は会期中全日要予約といたします。
Tel;090-7384-8169 email; info@operation-table.com
2021年10月2日sat. 14:00-15:30
対談「色身」を巡る考察
草野貴世+中村共子(フリーランサー)
参加費 500円
8月20日から、草野貴世「rupakaya ―色身」展、始まりました。メインギャラリーは、壁やパネルだけでなく、全体が瓷覗色に染まっています。甕覗色とは藍染の淡い青を示す日本古代色の呼び名で、淡い青の染まり具合を試すために度々甕を覗いたからだとか、覗いた甕に空の青が映っていたからだとも謂われています。草野は2019年「久留米まちなか美術展」に参加した時、久留米絣の倉庫だった空間で藍染に取材した作品を発表しましたが、今回、藍染と縁のある色彩に覆われたこの空間全体を、その「記憶、または忘却倉庫」が展開したかたちの作品としました。展示はこの瓶覗色の空間を主体に、紅色が集められた第一室、これまで展示空間として殆ど使われてなかった謎の白い映像室、そして2018年の「裏返り続ける・・・」以来、このギャラリーの一部として残されてきた黄色い蜜蝋の部屋、の4色に彩られた部分からなっています。その全体を草野は「rupakayaー色身」と名づけました。
rupakaya 色身(しきしん)は仏教用語であり、物質としての肉体を意味しています。
色(しき)は物質的な存在と同時に空(くう)でもある…という「色即是空、空即是色」の言葉に、無限に変容し裏返り続ける身体的な記憶を重ねてみるのです。
作品表現の中の色彩はその素材の感触と共に物質として存在し、同時にそこには実体が無いとも言えます。
Operation tableの空間の瓶覗色は藍染めのときに染料をためておく瓶「藍甕(あいがめ)」に、少しだけつけただけの淡い藍色、または、甕にはった水に映った空を覗き込んだような色という説もあります。甕を覗き込む時、そこで見るものは甕の内側では無い外側にある世界、或いはそこに映る自分自身なのかもしれません。(草野貴世)
4つの色彩の部屋それぞれに掲示されている草野さんのテキストをここで紹介します。
「手の記憶/記憶の手」に導かれて
後小路雅弘
ギリシャ語では、穢れは罪を贖う供犠を意味していたし、また「聖なる」という語も「穢れた」という意味をもっていた。ローマ時代にも、聖なるものsacerということばは、汚損したり汚染されたりせずには触れることのできない人間あるいは事物を示していた。・・・日本語でも、忌と斉はもともと同じ観念であった、・・・
─中村雄二郎『術語集』岩波新書 1984年
そして記憶とは、過去の言語化であり、ことばによる過去の意識化である。
─中村雄二郎『術語集Ⅱ』岩波新書 1997年
草野貴世さんの個展「rupakaya ―色身」は4つのセクションからなり、それぞれに統一された色彩が印象的だ。この展覧会は、まず、なにより「色」の展覧会である。「色身」というサンスクリットの仏教用語に源がある、やや難解なタイトルについては草野さん自身が述べているのでここでは繰り返さない。ただ、色彩を意味する色(いろ)と認識の対象となる物質を表す仏教用語の色(しき)とは、意味が異なるように思われるが、それを意図的に、あるいは直感的に、重ね合わせているところに、この作品=展覧会は成立しているのだろう。
さて、会場の入り口付近、最初の部屋は赤で、赤い色の服や帽子、マフラー、その他、身につけるものが壁面いっぱいに所狭しと展示されている。このギャラリーにもほど近い筑豊商店街を舞台に開かれた槻田アンデパンダン(2017年)に出品されたインスタレーションがもとになっていて、それに今回真武真喜子さんが呼びかけ、提供された「身につける赤い物」が加えられているという。
次のスペースは、前回2018年の個展「裏返り続ける・・・」の際に作られ、そのままこのギャラリーの常設展示として残されている部屋で、全体が蜜蝋の黄色に覆われている。
わたしたちは、赤の部屋を通り抜け、黄色を横目にしつつ、その次のメイン・スペースに入ることになる。そのスペースは青色、少し緑がかった淡い青色で統一されている。その色合いはたいへん静かで美しい。赤の空間を通り抜けて、高まった気持ちが、まるでおだやかな海のような青い空間のなかで静まっていくのを実感する。その淡い色の色名は「かめのぞき(甕覗)」というそうだ。それは「藍染の淡い青色を指す色名でやわらかい緑みの青のこと」を指す(註)。藍染めの甕に少し漬けた色、あるいは甕に映った空の色ともいわれる。甕の中を覗き込むと空の青が藍に映し出される、その情景を思い起こさせる物語性を持った、そして哲学的な趣きの色名だ。
最後の小さなスペースは白で、そこには、静止画像のスライドが映し出されている。
この展覧会は「色」の展覧会であると同時に、「手」の展覧会でもある。
メインのギャラリーを中心に「手」が主要なモティーフになっている。たんに「手」の直接的なイメージだけではなく、「手」を想起させるさまざまなものが用いられている。「手」とは、もちろん両腕の先にある身体の一部である。同時に、「語り手」、「作り手」、「歌い手」というように、ことばとしてもイメージとしても、「手」は技術を持った「人」を象徴する。手は、さまざまなことを語る。手は、ときにそのひとの人生をも語る。ふたつの椅子を覆った布に映し出されるのは藍染を生業とする女性の手の画像だ。その手は藍で染まっている。また壁面には、沖縄の古来の風習であるハジチ(針突)をした女性の手の絵が、藍染の液とつながって展示されている。ハジチの模様は濃い藍色の糸で表されている。
藍染の女性の手とハジチの女性の手は、藍でつながり、彼女たちの人生について語る。
草野さんが、藍染に関心を持ったのは、「久留米まちなか美術館」展(2019年)に参加した際に、展示場となった久留米絣の倉庫の歴史を調べたときだったという。草野さんが会場に掲げた文章には、藍の持つ自然の作用や呪術的な力について書かれ、また藍染にまつわる差別についても触れられている。
わたし自身、若いころ網野善彦の『異形の王権』を読み、最下層の被差別のひとびとが同時に「聖なる存在」でもあったという主張に、目から鱗が落ちる思いをしたことがあったが、その本の中で、「青屋/紺屋」という藍染を生業とするひとびとが、「放免」という被差別の民と密接な関連を持ち、歴史的に(西日本では)差別の対象とされたことが述べられている。(「放免」と「青屋」の関係には諸説ある)
ハジチもまた、沖縄女性の、手に藍を刺す「いれずみ」の風習であるが、「琉球処分」によって、拡大する帝国日本の最初の「植民地」となった沖縄では、同化政策の一環としてハジチは禁止される。いれずみは、文明国の(つまりは欧米列強の)仲間入りを目指す日本にふさわしくない野蛮な習俗として抹殺されていく。
藍染の甕に映った空の色は、そうした歴史のなかの藍の位置を映し、そして包み込む。
草野さんの作品は、そのような社会的なメッセージを声高に叫ぶわけでも、なにかに抗議するわけでもない。感情的にも、過度に感傷的にもならず、共同体の記憶を、ひとつのイメージに普遍化しようとする。その淡い青の、切ないまでに美しい色彩が、その記憶を聖化しているように見える。
(とかげ文庫主人)
註.「甕覗」『伝統色のいろは』」https://irocore.com/kamenozoki/最終閲覧2021年10月13日
【rupakayaアルバム】
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撮影 /
渭東節江:① ② ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑬ ⑭ ⑮ ⑳ ㉔ ㉚ ㉛ ㉟ ㊱
川浪千鶴:③ ⑩ ⑪ ⑯ ⑰ ⑲ ㉒ ㉞
草野貴世:⑥ ⑫ ㉕ ㉖ ㉙ ㉜ ㉝
谷尾勇滋:⑱ ㉑ ㉓ ㉗ ㉘