ああ!愛しのメキシコスープ!II
竹田邦夫+山福朱実+南椌椌
2018年10月13日(土) - 27日(土) 11:00 - 19:00
会期中無休
「山福朱実 水はみどろの宮 挿絵版画展」がOPERATION TABLEにて開かれたのは、昨年8月のことでしたが、その山福さんが、メキシコ機縁の竹田邦夫さん、南椌椌さんを北九州に招き寄せ実現したのが「ああ!愛しのメキシコスープ!II」です。
http://nekoyanagioffice.blog.jp/archives/65939761.html
「ああ!愛しのメキシコスープ!」は2005年9月に渋谷「WAKE UP」で開催されたものです。当時のDMには「メキシコ在住30年の怪しい銀細工師・竹田邦夫、メキシコにやられちゃった歴数15年の山福朱実&ソコソコやられちゃった歴10年の南椌椌が集う作品展」とあります。それから13年、今度は同じメンバーによる北九州での再会展です。竹田氏はメキシコ在住43年となり、山福+南はやられちゃった歴、二十数年ということになりました。
会期半ばには3人に加えゲストが揃って、以下の催しが行われます。
トークとソングとダンスの宴
2018年10月21日(日) 17:00 -
◆ 竹田邦夫X南椌椌 トーク
◆ 末森樹(Gt)X山福朱実(Vo) ライブ
◆ 山田せつ子 ダンス・パフォーマンス
参加費 2,500円(1drink付/要予約)
上演後レセプションの飲食+1,000円
【出品者・出演者略歴】
竹田邦夫 Takeda Kunio
1948年 愛知県生まれ。彫銀師。
1973年メキシコに移住。大学や美術館の彫刻科や彫金科で伝統的な技法を学ぶ。メキシコの街や村をぶらぶら歩くことで出会う、祭、踊り、歌、人、動植物たちをモチーフに創った作品を抱え、毎年秋に日本各地で展覧会を開催。
南椌椌 Minami Kuukuu
1950年 東京生まれ。自称・たぶん現代美術家。
1978年 吉祥寺にカレー屋「まめ蔵」を開店。1992年 画号を南椌椌として創作をはじめる。絵本に『にこちゃん』『くーくーねむりんこ』作品集にテラコッタによる『桃の楽々』ガラス絵による『桃天使さん』など。近刊絵本『ももももてんしのかずあそび』(もとしたいずみ 文)。
山福朱実 Yamafuku Akemi
1963年 北九州市生まれ。絵本作家。
1986年にイラストレーターとなり2004年に木版画に着手。絵本に『ヤマネコ毛布』『ぐるうんぐるん』等、挿絵に石牟礼道子『水はみどろの宮』等がある。ギタリスト末森樹とデュオでライブも行う。35年の東京生活を経、現在は山福印刷の工場内にアトリエ”樹の実工房”を構えて活動中。
山田せつ子 Yamada Setsuko
長野県生まれ。ダンサー・コレオグラファー。
明治大学演劇科在学中に即興舞踏と出会う。ダンスカンパニー枇杷系(BIWAKEI)主宰。現在はソロでダンス活動を行いながら、造形大舞台芸術研究センターの主任研究員としてダンス、演劇の企画を行っている。ニューヨーク、ロンドン、パリ等世界主要都市で公演多数。著書にダンスエッセイ『速度ノ花』。
末森樹 Suemori Tatsuru
1984年 東京生まれ。ギタリスト。
15歳でギターをはじめる。ソロ演奏の他に歌の伴奏、作曲も行う。映画『犬と猫と人間と』『犬と猫と人間と2』『風は生きよという』の音楽担当。ソロアルバムは『風は生きよという』『葡萄』。
ああ!愛しのメキシコスープII
竹田邦夫+山福朱実+南椌椌
「死者の祭り」にちなんで行われた三人展への長すぎるエッセー
岩本史緒
2001年から5年ほど、アメリカ合衆国のニューヨーク州の田舎町に住んでいた。9.11からアフガニスタン、イラクへの侵攻へと向かう時期、当時一緒に暮らしていた人が反戦運動に関わるようになり、多くの市民活動家と知り合うこととなった。近隣の町に住むグレーディー四姉妹は、アイルランド系アメリカ人で、直接行動に重きをおく歴史ある平和運動体に属していた。父親はベトナム戦争時代、いわゆる「赤紙」を燃やす運動で裁判にかけられた「カムデン28」の中心メンバーで、その娘=グレーディ四姉妹といえば、アメリカの市民運動に関わる人なら誰でも知っている、というとまぁ語弊はあるが、それくらい有名な人たちであった。グレーディ四姉妹はニューヨーク州ブロンクスのアイルランド系コミュニティで育ったが、当時その地域の主流となりつつあったのはプエルトリコ系移民らしく(ニューヨーク市内の民族/文化地図は時代により移り変わっていく)、プエルトリコをはじめとする中南米の文化は身近だったという。南米の軍事政権を裏で支えたアメリカの軍人教育施設に対する反対運動にも長く関わり、四姉妹のうち二人はプエルトリコ系のパートナーとの結婚を経験。スペイン語も流暢で、ラテン音楽を好み、ミーティングなどで多くの人が集まる時には、ケータリングも手がける長女が大量のビーンズとライスでもてなしてくれた。
冒頭から長々と思い出話をしてしまったが、一応この思い出話にも今回の展覧会との繋がりがあるつもりで、それは人は時として、生まれ育った環境や自身が生きる社会の状況によって否応なく、でもどこか必然的に、ある種の表現へと向かうことになるということだ。グレーディ四姉妹の平和運動しかり、竹田邦夫さんの銀細工しかり、南椌椌さんのテラコッタとガラス絵しかり、山福朱実さんの版画作品しかり。
竹田邦夫さんは、画家の竹田鎮三郎さんの弟。二人とも瀬戸の生まれで、兄の鎮三郎さんは芸大卒業後、同郷の北川民次への憧れを支えにメキシコに渡った方だ。邦夫さんは兄に続き1973年にメキシコに渡り、メキシコの美大で彫刻や彫金を学んだ。北川民次がメキシコ革命後、自分たちの国をつくるのだ、という熱気に満ちた時代のメキシコで創作を行ったのに対し、邦夫さんの時代は、長らく続いた一党独裁制のほころびが露わになり、多様な市民運動や少数民族による運動が活発化していった時代でもある。邦夫さんが住むタスコは北川民次が美術学校を開いた場所であり、かつて銀など鉱物の生産で栄えた町だ。鉱山が閉山した後も職人は残り、今は銀細工の町として知られている。この町を訪れたことをきっかけに、銀を素材とするオブジェやアクセサリーを手がけるようになった邦夫さんの作品は、モチーフの独自性もさることながら、独特の重みと立体感に彫刻家としての背景を感じるものになっている。どこか古びた、燻しの表面加工がメキシコの乾いた空気を感じさせる。
南椌椌さんの作品は、一言でいえば目が印象的だ。というのも、作品がすべて「顔」を持っているからなのだが、この顔がまた、見ているうちに、確かにこの作品にはこの顔だな…と妙に納得してしまうのが不思議だ。いくつかの作品のタイトルには「まなざし」という言葉が含まれてもいるのだが、この「見つめる」視線というのは、その視線と出会う観客の側に不思議な物語性を感じさせる。作品との出会いというのは見る者によって作られるのではなく、まさに作品から見つめられることで生じるものなのかもしれない、とも感じる。そんな南椌椌さんについて、私は事前に全く気づいていなかったのだが(こんなに特徴的なお名前なのに!)、かつて吉祥寺にあった伝説的なお店「諸国空想料理店KuuKuu」の椌椌さんで、そこには様々な歌い手や創り手や踊り手や…表現を生業とする人々が行き交い、出会い、新たな関係を紡いでいったのだった。「KuuKuu」をきっかけに、という話は、お店を閉じられて15年が過ぎた今も、しばしば耳にする。ちなみにガラス絵作品のフレームは韓国にお住まいの弟さんが作られていて、兄弟合作なのだそうだが、韓国と日本という二つの国を行き来し、両方の文化を抱えていくこと、さらに言えば時代の流れの中で導かれるようにのめり込んだ詩や舞踏との関わりやそれを通した人のつながりもまた、椌椌さんの作品づくりとは切り離せないものなのだろう。
と、ここでもやはり長々と、作品よりも作家の背景についての書き連ねてしまうのだが、こうした話は、作品の批評においてはしばしば不要とされるものでもある。ただ、作品は自律した存在であり、それ自体として論じられるべきであるという主張はもっともであるとしても、そうした手法を取ることで必然的にこぼれ落ちていくものがあることもまた確かだ。ある種の知の枠組み、社会的・政治的な言説では捉えきれないものを「別の仕方」で捉えようとする美術が、それを語る時には頑なにある種の知の枠組みに縛られてしまう。そんなジレンマが作品についての語りにはついてまわる。そんな批評のジレンマを、作家個人についての語りを通して解消できるとは思わない。でもある運動家について語ることが、その家族や、時代や、その人が生まれ育った場所と切り離せないように、作家が抱える背景や生きてきた時代や出会った人たち、つまり作家自身の生のあり様そのものが作品を語る上で必要とされる、そういう作品もやはりある、と思う。
そして山福朱実さん。若松のヤマフク印刷に生まれ、上野英信さんらと親交が深かった両親のもと、物心ついた時から“そういった”人たちが集まる環境で育ったという。父親の山福康政さんが若くして脳血栓で右半身不随となると、母親の緑さんが印刷所を切り盛りする傍ら、朱実さんが父親のリハビリをかねた散歩や書店巡りに付き合ったそうだ。オープニングの会場には、母の緑さんもいらっしゃって、その場にいる誰よりも明るく溌剌としたエネルギーを振りまいていた。在りし日のヤマフク印刷の工房の空気を感じるようでもあった。
今回の展示で印象的だったのは、朱実さんが木版画をはじめて間も無く手がけた一連の単色刷の作品。シンプルなラインが単色刷りの黒の力を印象付ける。チャベーラ・バルガスが歌うランチェーラ(メキシコの伝統歌)の一曲「パローマ・ネグラ(黒い鳩)」にちなんだ作品で、この歌は夜な夜な遊び歩いている恋人に向け男性が切ない胸の内を綴ったラブソングという理解が一般的だが、その内容とタイトルから「失われてしまった者たち」への追悼という風にも解釈できる。これまで様々な歌い手によって様々にアレンジされ歌い継がれてきた作品だが、レズビアンでもあったバルガスは、この歌を女性から男性に向けた歌にすることを拒み、あくまでも女性に向けての歌として歌い続けた。
朱実さんが育った背景との繋がりを感じさせるのは「PEACE CARD」展(ハガキ大の紙を用い、「平和」をテーマにした作品をつくり会場に送ることで参加する展覧会)のためにつくられた作品だろうか。声高には叫ばずとも、長くずっと平和について考え、行動し、作品にされてきたという印象がある。そしてその意思はこうした直接的に「平和」をテーマとした作品以外の創作にも確実に息づいている。
そんな朱実さんの近年の作品に、石牟礼道子さんの『水はみどろの宮』の挿画としてつくられた一連のシリーズがある。石牟礼さんの言葉が持つ、どこかこの世とあの世を行き来するような不思議な響きと語感。同じ時間と空間を共有しながらも、常にどこかここにはないものと語り合っているかのような石牟礼さんの佇まい。『水はみどろの宮』は、それらが美しい物語として立ち現れる作品だ。朱美さんの挿画は、石牟礼さんの世界を反映しつつも、版画が持つどこか具体的な手触りのせいであろうか、石牟礼さんの抽象的なイメージの世界をこの世と繋ぐような、石牟礼さんの世界への道しるべのような存在となっている。
石牟礼さんの独特な浮遊感をもった世界観や言葉の紡ぎ方は、石牟礼さん本人の身体から生まれたものではあるが、それが形作られた背景には、水俣についての言葉を必死になって獲得していく過程があったように感じる。水俣病というのは公害病であり、そこには問題が生じた科学的な根拠があり、政治的な解決策が模索される。だがもちろん物事はそうシンプルには運ばず、科学的な根拠は政治的に判断され、政治的に規定される科学の真理によって、問題の政治的解決は歪められていく。そして水俣病の問題が追求されていく過程で明らかになった問いの一つが、科学や政治の言葉とそれが根拠とする知の枠組みが、水俣病の渦中に置かれた人々の言葉や生活やその背景にある知識のあり方と根本的に異なる、ということだった。政治家や医者の言葉と水俣病を生きる人々の言葉の根本的な差異。その差異の背景にはそれぞれが寄って立つ世界のズレがあり、そのズレのただ中にあって、自分たちが生きる世界を表現する方法を模索してきたのが、石牟礼さんをはじめ水俣の文学や表現を作ってきた人々であったと思う。自らが生きる世界の成り立ちと、そこで起こる人と自然の関わり。そこで大切とされ、幸せとされていることをどう表現し、共有可能なものとするか。そして世界と世界のズレの中で、虐げられ失われてきてしまったものたちを、どのように弔うのか。石牟礼さんの言葉には、言葉自身のジレンマの中で、自らの世界を語る言葉を生み育ててきた、そんな凄みがある。そして、そんな石牟礼さんの言葉に触れた時と似た何かが、朱実さんの版画作品、そして今回の展覧会全体からも染み出してきているような感覚を覚えた。
なぜ木版画に惹かれるのか、という問いに対し、朱実さんは「自分の力ではどうにもならない要素があるから」とこたえた。自分の力ではどうにもならない要素は、多分どんな表現にも内在してはいるのだと思う。それでも絵筆を取りキャンバスを埋めていく絵画的な表現に対し、木版画の場合は特に、様々な工程で作品を自分の手から離すこと、作り手が一方的にコントロールしきれない状況が発生する。それが自分以外のものに自身の表現を委ねる意識にもつながり、さらには、表現における自分以外のものの存在を強く意識すること、その存在について思いを馳せることにも繋がっていくだろう。それはメキシコの人々が「死者の祭り」を通して、失われた人々に思いを馳せたり、石牟礼さんが言葉を通して水俣の世界を描いたりすることとも、ある種の近しさを持った感覚であるように思う。様々なものを抱えながら、あるいは様々なものに支えられながら生まれる一つ一つの作品を、今後も見続けていくことができることの喜びを噛み締めながら、これでもだいぶん色々なものがこぼれ落ちてしまった結果ではある、この長すぎるエッセーを締めたいと思う。
補足
・竹田邦夫さんと南椌椌については、会期中にお話しさせていただいた内容や、山福朱実さんから伺ったことをベースにしています。
・竹田邦夫さんのお兄さん、竹田鎮三郎さんについてはこちらも参考にさせていただきました。http://playtaro.com/blog/2015/06/15/
・グレーディ四姉妹については、インターネット上に色々な資料がありますが、次女と四女が参加し2003年3月17日(セントパトリックデイ)に行われた直接行動とそれに続く裁判をとりあげたドキュメンタリーが数年前に完成し、ここで見ることができます。https://vimeo.com/145415169