「遠賀川神話の芸術祭 2022」
「やはたアートフォレスト 2022~パレットの樹~」は、2018 年八幡駅前周辺地区の秋の芸術文化交流事業としてスタートしました。展覧会開催地である、八幡駅周辺地区は国家戦略特別区域諮問会議で、「公道を活用したにぎわいの創出」事業で特区として認められています。共催として八幡夢みらい協議会、また「つながる絆!八幡」実行委員会による「けやきテラスプロジェクト」といった活動の支援のもと、「やはたアートフォレスト 2022~パレットの樹~」は、芸術文化の創造・発信を推進し、地域における固有のアートのあり方を考えていきます。
遠賀川流域は大陸との位置関係が近く、歴史、産業、文化的に重要な場所でした。「やはたアートフォレスト 2021~パレットの樹~」関連企画でもあり、東アジア文化都市 2020-2021 パートナーシップ事業「遠賀川神話の芸術祭 2020」では、再度遠賀川流域の本質や大地の力を検証し、地域固有の芸術表現を生み出しました。
今回も「遠賀川神話の芸術祭 2021」に引き続き、「やはたアートフォレスト 2022~パレットの樹~」関連企画として、遠賀川流域となる北九州周辺地域のアーティストの交流の場としての展覧会「遠賀川神話の芸術祭 2022」を開催します。
開催日時:令和 4 年 11 月 20 日(日曜日)~12 月 4 日(日曜日)(11 時より 17時)
開催会場:北九州市環境ミュージアム、operation table
参加アーティスト:
(operation table)鈴木淳、谷尾勇滋、福地英臣、松野真知
(北九州市環境ミュージアムドームシアター)田中奈津子、second planet、鶴留一彦+森秀信、長野聡史
アーティストトーク:11 月 27 日(日曜日)15:00 @Operation Table
主催:八万湯プロジェクト
11 月 27 日の日曜日には、Operation Table と北九州市環境ミュージアムの2会場に展示している出品作家が集まりアーティスト・トークを行いました。トークに引き続き、環境ミュージアムにインドネシア滞在制作の映像作品を出展している田中奈津子作品に関連する魚拓のパフォーマンスも行われました。寿司屋や鮮魚店に飾られている魚拓は釣りの成果を記録する魚拓にほかなりません。ところがアーティストたちが新鮮な魚を前に墨を摺るところからはじめて、魚に丁寧に墨を塗り、和紙をあてて鮮魚の拓本を採る現場と刷られたものを見ていると芸術行為としての版画制作に見えてくるのは不思議な体験でした。Operation Table 会場にその成果も展示しました。環境ミュージアムの田中奈津子作品と合わせてご覧いただくとオモシロイです。魚拓になったクロダイは田中奈津子さんのパートナーでプロフェッショナル料理人、森田さんがこの朝、門司港で釣り上げたばかりの新鮮なもの。魚拓に続いて、森田さんによる魚さばきパフォーマンスがあり、そのあとは参加者のみなさんで、極上のお刺身ご相伴に与りました。
トークイベント
谷尾勇滋
consumption scape consumption scape ⓒYuji Tanio consumption scape ⓒYuji Tanio
consumption scape © Yuji Tanio 新地誌編纂 ⓒYuji Tanio 新地誌編纂 ⓒYuji Tanio
新地誌編纂 ⓒYuji Tanio 新地誌編纂 ⓒYuji Tanio 展示風景 ⓒHidenobu Mori
松野真知
道を外れて路上に出て来たシーボルトミミズにフォードトラクターと
鈴木淳
On the Bed (下段のモノクロドローイング)放置された異形について1~4
福地英臣
愛は果てない
森秀信
ダグラス・ゴードンへのオマージュ -Ancient tomb
素材:モニター、DVD Video 3min.42sec.
2018年制作
1997年アムステルダム市立美術館のコレクション展で観たダグラス・ゴードンの「HAND & FOOT (RIGHT)」へのオマージュ作品。遠賀川流域に残る、天孫降臨の瓊瓊杵尊、神武東征、物部氏の伝承から、前方後円墳の象徴の鍵穴形を手のひらに指でなぞらえるパフォーマンスの映像作品。
前方後円墳は、古代中国の円形は円い天を表し、方形は四角い地を表すという「天円地方(てんえんちほう)」の考えによるものとされ、円形(石棺)の亡くなった王は神になり、継承者の王は方形の地の上に立つことで支配権を表したものだといわれている。
森秀信+鶴留一彦
KANMON 8
田中奈津子
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2
3
4
1 インドネシア、ジャカルタのGudskul で実施した”Gyotaku Workshop”成果展示ⓒHidenobu Mori
2 インドネシア、ジャカルタのGudskul で実施した”Gyotaku Workshop”記録動画展示風景ⓒHidenobu Mori
3 隔離された絵画」展示風景ⓒHidenobu Mori
4 A quiet exhibition under pandemic 2020(一時帰国した2020年11月北九州市門司区の実家で行った展覧会の記録動画展示風景ⓒHidenobu Mori
長野聡史
「馬見/足白」上映会場風景ⓒHidenobu Mori
映像作品「馬見/足白」スクリーンショット
環境ミュージアム展示風景
魚拓パフォーマンス+お造り
「遠賀川神話の芸術祭 2022」に寄せて
柏原孝昭
私は2014年末から2020年春まで仕事で浦和、船橋、および我孫子(仕事は取手)に定住していたのですが、地縁血縁は全くないところへとびこんだのです。ただし、知り合いは東京の画廊の方たちでした。(1990年仕事のおり東京の画廊へ行ったのがきっかけで、年4、5回ギャラリー廻りするようになっていました。)我孫子から佐倉市美へサイクリングかねて出かけると印旛沼の横を京成電鉄が追い越していきます。
これより十数年前、初めて佐倉市美(千葉アートナウ)へ京成電鉄で出かけた折どこへ連れていかれるのだろうかと不安に駆られたのですが、いま、その京成に追い越される、なんて奇遇なことなんでしょうと。
はじめて北九州市美へ来たとき戸畑からバスで山の中へ連れていかれ、ケレンミたっぷりのエスカレータでびっくりして戸畑市街地を望んでいました。今見る風景とおなじ。なんて奇遇なことなんでしょうと。その時は、平野遼没後最初の回顧展でした。忘れえぬ作家を先日再度見ることができて嬉しかったです。平野遼は目的の植松奎二を見て体が火照ってた後のことでした。
印旛沼は東西ある沼間の谷間を掘削した水路でつないでいる(工事中にナウマン象の化石が発掘)その水路の上を成田エクスプレスが通りその高架下をくぐりぬけると、見たのです、かつて美術手帖で憧れて一度は行きたかった「メタルアートミュージアム」がかつてそのままに(多分最後の展覧会の看板を残して) 印旛沼ほとりに佇んでいる。。遠賀川は田川市の彦山川のところから河口まで走ったことがある。
河口なら若松と芦屋町間を毎週往復している。河口付近は街化しているがチラシの風景は印旛沼付近そのものだ。私は二つの風景を往還できる。いまNHKFMバイロイト音楽祭ラインの黄金の演奏が終わったところ。すごいブーイング。ニーベルングの指環は神々の没落と人間の再生を描くもの。これだけのブーイングは1976年のブーレーズ/シェロー以来かも。「黄昏」の第一幕のはじまりで、ブーイングで演奏が止まったほどだ。ところが、好評につき1年延長になった。今回どれだけ観客を説得し魅了させられるか演出家の技量に注目するところだ。そして、埼玉近美の学芸員が一度は来たかったところであり望みを果たしたoperation tabbleと北九州市環境ミュ-ジアムで「遠賀川神話の芸術祭2022/11/20→12/4」(出品作家名は別紙に譲る)は開催された。
鈴木淳の作品が入口入って右側に大小さまざまなサイズで壁に掛けられている。何段重ねの展示というのでなく、ある1点から投げ出された光子が時間の遅速によりサイズを変えるインスタレーションと捉えてよい。(ドップラー効果で色も変わるかもしれない。) それぞれのキャンバスでは自転を繰り返す構造体が最後の時を過ごす。観客に見られてしまったら人々に印象を持って行ってしまわれる。観客の頭の中で光子が乱反射を繰り返し波紋が蓄積される。記憶なのだが侵蝕反応みたいなものだ。作家はワークインプログレスにより観客に波状侵蝕させてよい。私にも画面をぎゅっと引っ張らなくても構造体の迷路が見えてくる。
正面に展示されている谷尾勇滋作品。私たちがいつもの通り住んでいる街が対象ですが、物理的な風景であれば「絵のようにきれいな街」でよいでしょう。古来印象派は光を取り込み写実性をさらに高めた。しかし、人が暮らす街風景なのだからと人の精神というレイヤーを織り込んだ。抽象的に可能世界を追えば私には理解不明なものばっかりが出てくるのでしょうが、じつは具体的にみえる街風景も深遠さで□□作品を思い浮かべる事になるかもしれない。」
出品作家の田中奈津子さんはジャカルタと北九州市で創作活動を行っているが、京都でも度々個展を開いている。絵画作品タイトル「隔離された絵画」は私が思うに(作品解釈にならないのですが)、ジャングルの木々の重なりのように見える緑色のストロークの隙間から向こう側の景色が見えそうで見えない、こちら側から見える緑は向こう側からも同じ緑みえるのか。(もちろん作家はこちら側しか著色してない。こちら側しか見てないのかもしれない。)これはいまこちら側にいる遠賀川といまや向こう側となった印旛沼(私の場合)の風景といえる。こちら側は日に日に増幅されるが、向こう側は記憶としての残影は消えていく運命にある。「哀しみのソレアード」という歌がある。人はさよならを言うために生きている。あるいは、生まれてくる。(消えていく運命に抗うように、記憶の再生のために人は旅(キッチュで嫌な表現、私は旅などしない)に出る。)
これは経験としての時間の積み重ねですから、ウエハーの重なり(バームクーヘンでもよい、先に言う旅かも)のように厚くなると、あとからおいしく食べられるというもの。おいしいといえば、魚拓なのですが魚拓自体は食べられませんが実魚よりもおいしいのです。アートですから。実魚も魚拓のあと刺身にして食べました。ジャカルタでも人気のあったワークショップですが、魚拓と刺身という非日常を体験できたと思う。魚影を写し取る。そして、生身の味を摂取する。魚拓の魚がいま口の中を喜ばせている。いまや、日常で二つを同時に体験することはなかなかない。スーパーマーケットでも実魚はある。刺身もある。悲しいことに生きられていたとき、この2つは同じ個体ではない。
刺身の実魚状態はみていない。トマトは見るがトマトケチャップのトマト時代は知らない。あたり前田のクラッカー。別のトマトで代用できる。多分これと同じだろう。トマトケチャップで思い出すのがアンディウォホルですが缶なのですね。中身が見えない。
同じくらいウォホルの中身も見えない。ポップアートの旗手と言われている(?)けど、ミニマルアートにみえる。チャップ缶も最小限の表現、チャップ缶しか描いてないですし。ミニマルを引きずっているようにみえる。私の誤解もあるかも。最小限≠単独(最個限)
北九州市環境ミュ-ジアムで映像作品、鶴留一彦+森秀信は関門海峡の灯台の前で背中合わせに立って固定ヴィデオで数十分我慢の撮影。動かない様に見えて、実は動いてる。揺らいでいる。意識としては「動いていません」と言いたいでしょう。横向きですから二人の視線は確認できませんが、体が揺れる程度に揺らいでるでしょう。(そんなことどうでもいいこと)見てる側はずっと二人をみてなくて後ろを通る船とか、少し波がでたらそちらを視線を移す。ワーグナーの音楽も80分集中して聞いてられない。フットと気を抜くときがある。一般的には嫌なものを排除するための借景かもしれません。しかし、視線の逃げ道として必要でもある。ミニマルに徹したいのであれば邪魔でもある。(灯台は借景か)
灯台も明治建立以来動いていない。その当時も今見る風景とおなじではなく、これからも変わっていく(変転伝説)。私は映像作品での二人は最後までみました。最後にどちらかが頭を搔いた(様に見えた)ところで、突然に映像は終了した。もっと見たかったのにと心にもないことを思う。このように映像に、映像中の二人に付き合えるのはアートをみるという、わたしにとっての日常からきている。私が灯台の前に映像と同時間立ったらアートになるかしら。そこでは関門神話という気がアートと共通感覚が立ち上ってくるとうれしい。アンディウォホルが食べたあとの空き缶であってもそれはただの缶。私も灯台の前で缶を捨てる。(多分ごみ箱へ)ここで、NHKFMバイロイト音楽祭ワルキューレ第1幕の演奏が終わったところ。今度は爆発的なブラボーでした。これは分かります。60分歌い続ける登場人物は2人しかいない。歌手たちの技量にかかている。しかし、第3幕が終わると1976年と同じくブラボーとブーイング混然一体はいいですね。新演出には両方あることで「新」のさらに先に進める。
遠賀川神話となっていましたけど、神話って何なのかなあ。先日のoperation tabbleで山福朱実 トーク+末森樹 ギター演奏のライブ、「子供の頃から歌わされてました」と言いながら〽小倉生まれで玄海育ち〽、と歌いはじめると会場がひとつに熱くなった。
サイクリングで国道495号を走りますが、沿線に逆水(sakamizu)というところがあり、sakasamizuというのかなと思ってました。
千葉県の柏市(我孫子の隣町)に逆井(sakasai)があるのでgyakumizuとは絶対言わないと考えてました。草野貴世さんのカタログ「”水の間”の後で」に逆水(sakamizu)が記載されていた。山福朱実さんの歌で北九州の人には共通の感情が呼び覚まされ、地名には人々の拠り所としての多分、共通感覚がある。アートにも人々が響きあい、遠賀川の神話的世界への気配(共通感覚)を呼び覚ますのでしょうね。
バイロイト音楽祭の8演目の放送が終わればこの一年もおしまい。土日は2本立て苦行だよ。