山本糾「ミシンと蝙蝠傘」
2017.11.11Sat. - 2018.1.28 Sun
11:00-18:00 土・日のみオープン
平日は予約制 090-7384-8169
オープニング・イベント
2017.11.11 Sat. 15:00
山本糾+白川昌生トーク・セッション
レセプション 18:00
参加費 1,000円
山本糾は、「考える水」「暗い水」「落下する水」という、奥深い山中の滝や山頂の湖沼、渦巻く海面など、水の情景や様態を捉えたシリーズで知られてきました。水はときには工場の煙突から勢いよく上る煙となった水蒸気であったり、空になった薬品壜の内壁に張つく水滴であったりもします。ここ数年は毎回参加している「対馬アート・ファンタジア」のため対馬を訪れ、霊気漂う神社の森を撮ったり、北端にある自衛隊の通信基地の島「海栗島」を対岸から捉えた作品を発表しています。
展覧会名は、Operation Tableが旗印に掲げるロートレアモン伯爵の詩の一節に拠っていると同時に、山本糾が敬愛する作家、稲垣足穂の短編小説の題名から引かれたものです。今展では、まさに手術台の上に置かれ撮影された「ミシンと蝙蝠傘」のほか、水のシリーズの数々、もと動物病院の会場にふさわしく薬品壜が並ぶ「BOTTLES」や、対馬で撮影された最新作に、未発表作品も加わり大小20点の写真作品が出品されます。
初日のイベントでは白川昌生を招き山本とのトーク・セッションを行います。山本は数々のアーティストの展示写真を撮影することも仕事としてきましたが、白川作品はほぼ山本によって写真に収められています。また白川は2012年に豊田市美術館で開催された山本の個展に際しカタログ・エッセイを寄せるなど、山本作品のよき理解者でありました。その両者による写真論が展開されることになります。
山本糾
1950 香川県生まれ
1974 武蔵野美術大学デザイン科卒業
主な展覧会
1990 「写真の過去と現在」東京国立近代美術館、京都国立近代美術館
1994-97 Photography and Beyond in Japan - 空間・時間・記憶」原美術(東京)
1996 個展 「暗い水」ギャラリーNWハウス(東京)
1997 個展 「考える水」ヨコハマポートサイドギャラリー(神奈川)
2002「傾く小屋」美術家たちの証言 since9.11東京都現代美術館(東京)
2009 第一回所沢ビエンナーレ美術展「引込線」(西武鉄道旧所沢車両工場)(埼玉)
多摩川で/多摩川からアートする 府中市美術館
2010 個展 「落下する水」国際芸術センター青森
2012 個展 「光・水・電気」 豊田市美術館(愛知)
2014 対馬アートファンタジア2014(長崎)(2015, 2016, 2017)
2016 個展 「何も遮るもののない場所」ギャラリー・ハシモト
「何も変えてはいけない」 2016
薬品壜の中における思いがけない水と生命の出会い
福島 勲(北九州市立大学教員)
「ミシンと蝙蝠傘」展の《Bottles》シリーズと対面したとき、一昨年にパリのジュ・ド・ポーム美術館で見たJosef Sudekというプラハの写真家の展示がふと思い出された。ナチス占領期をひっそりと生きのびたこのチェコの写真家は、自宅アトリエの窓ガラス越しに見える庭や空き瓶に映り込んだ風景を撮影しながら、私たちの視覚が全て光の反射(イメージ)に過ぎないことを証してみせたが、その光の本体そのものを山本は水滴に曇る薬品壜とその内部の水によってキャッチしているように思われたのである。
薬品壜=受肉した光。なるほど、山本の薬品壜たちは、すぐれて、光の「依り代」である。光を透過するともに屈折させるガラス、それを支持体とする水滴たちが逃走線で描く文様、そして、水滴になることなど想像もさせない静謐な水。これらの媒体に宿ることによって、不可視な光(そもそも光は反射によってしか可視的とはなりえない)は可視的な存在として顕現する。この構造について、北谷正雄は「山本にとって水は、光との関わりにおいて写真のメタファーなのである」(図録『山本糾 光・水・電気』、豊田市美術館、2012年)と書く。つまり、写真が印画紙ないしはイメージセンサに描かれた光の軌跡であるように、山本においては水が光の身体となるのである。
ただし、水が「依り代」であるとしても、その依り代が宿らせるのは物理的な光だけではなさそうなことに、おそらく私たちはすでにして気がついている。そう、この《Bottles》シリーズの薬品壜たちの佇まいには、奇妙な厳かさ、油断すると思わず「崇高な」と口を滑らしてしまいそうなアウラが立ち込めている。大量生産される既製品を並置するその展示スタイルからすれば、むしろウォーホールの《キャンベルのスープ缶》の均質で虚無的な明るさをこそ想起すべきであるのに、薬品壜たちを見つめる私たちの視線はむしろ薄暗い、採光口の限られた小さなロマネスク教会の祈祷所を探すかのようである。まるでその場所こそが、思いつめた様子の、存在の際をその光の輪郭に露出させた単独者たる薬品壜たちにふさわしい場所であるかのように……。
薬品壜=受肉した光=キリスト。これは繋辞の濫用ではない。水への受肉によって光を可視化させる山本の作品は、人間への受肉によって神(神はあらゆるイメージ化を拒む)を可感的な存在にするカトリックの三位一体の教義と通じ合っている。まさしく光のように不可視で触知不可能な「神」というイデアは、マリアという聖処女に受胎し、神かつ人間であるキリストという矛盾した存在として誕生(受肉)することで初めて、人々に見られる可視的で、可感的な存在となる。この受肉の神学という超自然的な「驚異」(トドロフ)は、西洋絵画史においては大天使ガブリエルによる聖処女マリアへの受胎告知の図の反復を生み出したし、山本においては光を受肉したただならぬ「崇高さ」をたたえた薬品壜たちの反復を生み出したのである。
ただし、《Bottles》シリーズの薬品壜たちの一つひとつが感動的に映るのは、それがおそらくキリストといった超越的な存在の似姿であるよりは、むしろ、限りある生命を愚直に生きる私たち一人ひとりの似姿に見えるからである。薬品壜たちの内部に決して「なみなみ」とは言いかねる量で取り分けられ、一時的に他とは別れて独立して存在することを運命づけられた水とそこに宿る光とは、まさしく私たちに平等かつ不平等(長命な者もいれば短命で世を去る者もいる)に与えられた生命の隠喩である。薬品壜の中に閉じ込められた水が、潜在的には、雲から雨に、雨から湖水に、湖水から川に、川から海に、海から雲に……という大きな循環の中にあるように、私たちもまた自然という大きな生命の流れから、何かの偶然によって一つの独立した生命を有する個体として分離され、限られた時間をその状態で生き、そしてしかるべき時間が来れば、再びもとの自然へと還ってゆく。そうした私たちが個々で行なっている「生きる」という孤独で有限な営みこそが、この《Bottles》シリーズの薬品壜たちを通して見えてくるのである。
実際、筆者の訪問日に行われた山本と白川昌生とのアーティスト・トークの中では興味深い逸話が明らかにされている。すなわち、山本の母の職業は看護師であり、幼少の頃に母の職場で見かけた点滴液の入ったこれらの壜がこの作品群の着想となったかもしれないというのである。これは《Bottles》シリーズの薬品壜たちのたたずまいの「崇高さ」を実存的なレベルで説明するものではないだろうか。つまり、《Bottles》シリーズが、まさに山本糾本人に「文字通りに」生命を与え、この世に受肉させた母のレミニッサンスから生まれているのだとしたら、命の水が入ったこの薬品壜とはまさに山本糾その人の姿であり、また私たち一人ひとりがその身に引き受けている生命のあり方である。
水=光=生命。この繋辞から考えてみれば、《暗い水》シリーズの飛び地のような水たまりは、遭難状態で静かに身をひそめている登山者や群れからはぐれた動物、もしくは生命の消えかけた廃村のように見えるし、また、奔出する煙は檻から放たれてその大きな全躯を誇示する生物たちの姿にも映るではないか。ただし、生命の奔流をもっとも直接的に体現するかのようにみえる《落下する水》シリーズの滝だけは、常に中央に黒い分断線を伴って示される。その黒い線の遠慮のなさは、まるで病院で見せられるレントゲン写真のぶっきらぼうさに通じるものがある。おそらく、滝を横切る黒い分断線は、屏風絵や襖絵のような日本画が制度としている切れ目への参照とも、それを撮影した写真家の風景の背後に埋没すまいという自意識とも違う。それはメメント・モリ、死の予告なのである。滝のように激しくほとばしり続けるかに見える生命にも死は運命づけられている。循環の中にある一瞬の滞留、それが私たちなのだ、と黒い線は告げる。
したがって、山本糾とは、風景や静物であるよりは、むしろ生物の、より正確に言えば、肖像の写真家なのである。先にあげた豊田市美術館の図録に寄せた文章中で、白川が適切にもベンヤミンとともにアウグスト・ザンダーの名前をあげているのは偶然ではない。水の入った薬品壜、滝、滞留した水、池、川、海といったさまざまな水のある風景や静物を写しながら、山本の視線は常にその背後に潜んでいる静謐な生命の流れをまなざしており、その対象が水や岩のような無機物であれ、あたかもザンダーが写した肖像写真のように、そこに個々の対象がはらむ「崇高さ」とも言うべきものが出現している。
逆に言えば、山本が作品展示の記録写真家としての顔を持つというのも自然なことであると思われる。肖像写真が一秒に満たない露光時間から私たちの生の本質を写し撮ることを求められるように、山本は他の作家が創り出した作品の生命を探り当て、それを写真上に定着させるのである。肖像写真と同じく、それは「かつてあった」オブジェの記録であると同時に、山本だけが知っている方法でその本質をキャッチした、作品の肖像写真という作品なのである。今回の展示場であるQMACでは、展示名にも使われている「手術台の上での思いがけないミシンと蝙蝠傘の出会い」の実物と写真とを見比べることができたが、後者の中の三者は実物よりも不思議な生命感に満ちている。
写真上に存在のアウラを定着させる山本の特異性は、近年の水に囲まれた對馬、磐之媛陵はもちろん、水のない無機的な鉄塔のシリーズでも遺憾なく発揮されている。なるほど、対象を依り代として写真上に生命をおろしてみせるその独自の「写真術」は、死と結びつけて語られることの多い写真技術の逆を行くかのようである。しかしながら、鉄塔シリーズでは、滝を横切る黒線と同じく、美しい構造体の人工性をあらわにする加工がほどこされた作品も見られる。カネフスキーの映画の題名にあやかって「動くな、死ね、甦れ」とでも呟きたくなるこの生と死の間の往復は、物質と生命との間に存在の本質を探し続ける山本の真骨頂であろう。いずれにせよ、この光と影で思索するこの写真家の歩みから、今後も目を離すことはできまい。
関連イベント
「稲垣足穂の『一千一秒物語』を読む・歌う・奏でる」
日時 2018年1月19日 18:00-20:00
出演 山福朱実(歌・朗読)+末森樹(ギター)
参加費 1,000円(LIVE終了後のパーティ含む)
稲垣足穂の「一千一秒物語」には「星をひろった話」「流星と格闘した話」「ポケットの中の月」「星でパンをこしらえた話」など、奇妙な夢想に満ちた小話がいっぱい。展覧会タイトルになった「ミシンと蝙蝠傘」は、写真家、山本糾が敬愛する作家、足穂の小説名、その足穂の作品中、山本いちばんのお気に入りが「一千一秒物語」だったのです。2017年夏の展覧会「水はみどろの宮挿絵版画展」で、石牟礼道子原作の「水はみどろの宮」に曲をつけてギターと歌と語りのLIVEをやっていただいた山福朱実+末森樹さんに、今度はタルホを読む・歌う・奏でる試みに挑戦していただきます。タルホのファンタジーがギターのメロディに乗って美しい歌声で聴ける!絶妙なイベントです。
山本糾 「ミシンと蝙蝠傘」クロージング
「山本糾+青木野枝 トーク・セッション 写真/彫刻」
日時 2018年1月27日 15:00-17:00
出演 山本糾(写真家)、青木野枝(彫刻家)
聞き手 後藤新治(西南学院大学美学美術史教授)
参加費 1,000円(懇親会 18:00-含む)
山本糾は自身の写真作品制作と並行して、彫刻家の作品記録写真を数多く撮影してきました。なかでも彫刻家、青木野枝の作品写真はほぼ山本の撮影によるもの。また青木も写真による紙作品を制作し彫刻の展示に採り入れたりもしています。そして聞き役をお願いした後藤新治先生は、北九州市立美術館学芸員時代に、山本・青木の大先輩である彫刻家、若林奮の個展を企画しました。その3者が集う稀な機会に、写真と彫刻の流れや現在について、それぞれの活動について語り合っていただきました。
山本糾「ミシンと蝙蝠傘」展が朝日新聞【2017.12.20(水)朝刊、奥村智司記者】に紹介されました。
〈断/続〉身体を通して
進藤 環(写真家・九州産業大学教員)
Operation Tableの山本糾「ミシンと蝙蝠傘」展は、1982年から近年まで幾つかのシリーズで埋め尽くされていた。長くファンでありながら、豊田市美術館の個展 「光・水・電気」を見そびれていた私は、決して広くはない動物の手術室であったその空間に山本の写真が集結していることに興奮した。
まず、入口の左側に《Bottles》や《落下する水》など初期の作品が展示されている。《Bottles》は、瓶のラベルから点滴に使う成分や医療で使うものと分かるが、瓶に入っている少量の液体が、果たしてラベルにあるそれかは写真では判明できない。しかし、暗い背景の中に浮かびあがる瓶の内側に付着する水滴が、瓶によって様々な様態であることから、もう一度ラベルへと目を向けることになる。このイメージと言葉による関係性は、ルネ・マグリットのパイプを描いた絵に「これはパイプではない」と書かれた、《イメージの裏切り》(1928-1929)を想起させ、パラドックスの解法で瓶に内在する水へ、より意識が向くことになる。
次に、《落下する水》は勢いよく流れる滝を撮影したものである。崖の先端からほとばしる水は途切れることなく滝壺まで落ちてゆく。長い露光は水に含まれる光をキャッチし、薄暗い木々や岩肌から浮かび上がる白い水の彫刻へと変貌させた。写真の中で形を得た水は、滝壺から上へ向かって屹立しているように見える。そして、山本はその水の彫刻を真ん中からチェンソーのようなもので切り込みを入れている。言い換えれば、画面に上下を分断する黒い水平線を出現させているのである。なぜ、滝のような垂直へ方向性を持つものに対して、その力を止める水平の分断線を入れたのか。
山本の垂直に対する意識は、展示方法からも伺うことができる。今回の展示で、《Bottles》、《落下する水》の2シリーズは数枚ずつ縦に並べる方法をとっている。そのことにより、写真に映されているものは支持体を越えて流れを生み出し、重力に逆らって浮遊していくようである。ここで気がつくのは、瓶が置かれた木製の台や、垂直に落下する水の先にある水面が消失することである。
もう少し先を見ていこう。《jardin》は皇居や陵墓、《何も遮るもののない場所》は対馬の森林を撮影したものである。何も遮るもののない場所と言っているその場所は、多くの樹木が植生し、先へ進むことを拒んでいる。《jardin》は近づきたくても近づけない、人工的につくられた水の隔たりが、こちら側と向こう側を分断している。両方とも正面性を意識した構図であり、そのことで断絶はより顕著なものとなる。
《jardin》はのち、2012年に8×10のカラーポラロイドで撮影している。ポラロイドは、暗室における現像、停止、定着、といった水を使用する一連の現像処理工程をなくし、即座に写真ができ上がるインスタント写真である。撮影後、光のあたった感光面と支持体の間に処理液が浸透し、この2つを剥離させると画像が現出する。山本がポラロイドで撮影したその写真には、シートを剥離するときにできた現像ムラや感光がところどころにある。それは皇居というある種、特権的な時間を有する場への、時間を要さないポラロイドが生み出した現在からの浸蝕であるように思える。そして、いくつかの時間軸は一枚の写真という平面に収斂される。
山本の垂直に対する意識に話しを戻そう。ここで、入口付近に展示されていた《考える水》が目に留まる。俯瞰の構図から撮影された水は、鉛のような質感と灰色の鈍さを持ち、画面の中に流水、波、渦といった重い水の動きを生んでいる。それらは濁りのない石狩川を撮影し、水面に薄っすらと映る光の加減から太陽が真上にあると考えられる。
《考える水》を眺めていると水の動きの奥に、銀塩の化学反応で生成される像が現れてくるようである。大きなバットに水を張り、印画紙を投入し緩やかな攪拌を行う。現像液の中を漂う印画紙は水平が保たれている。一方、川の水は地球という地表に対して水平性がある。それらを撮影することによって、その水平性は山本の身体を通じて暗室へと繋がっているのではないか。そして、暗室でおこなわれる水平性をともなう現像作業の一連の動きは、身体の垂直性をより際立たせ、山本の垂直に対する意識を生み出す導因となっているのである。