鷹野隆大 Y式
2017.8.19 Sat.-10.22 Sun
11:00-18:00 土・日のみオープン
平日は予約制 090-7384-8169
オープニング・レセプション
2017.8.19 Sat. 17:00から
参加費 1,000円
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Y式
八幡の街を歩いていると、屋根の連なりに目が行く。年月を経た渋い屋根瓦が左へ右へと幾層にも重なっている様には何とも言えない味わいがある。注意して眺めると、それらは増築を繰り返した家である。僕はそれを「Y式」と勝手に命名することにした。
僕の関心は主に造形的な美しさだが、これらの家々は製鉄で繁栄した昭和の時代を確かに生きていた。筑豊石炭の終着点であった八幡。
この展覧会では八幡に住む人々の家族アルバムをお借りして、およそ50年前の写真もあわせて展示する。それらを眺めていると、個人的な記録のために撮った写真が個人を越えて生きていることを感じる。“時間”の表現としてこれ以上の方法はないのではないかとすら思う。
僕が今回撮影した写真の50年後を思いながら、いま展覧会の準備をしている。
2017.7.14 鷹野隆大
略歴
1963年 福井県生まれ。
2006年 第31回木村伊兵衛写真賞受賞。
2016年 個展「光の欠落が地面に届くとき 距離が奪われ距離が生まれる」ユミコ チバ アソシエイツ(東京)
2017年 写真分離派「写真の非倫理 – 距離と視角」NADiff Gallery (東京)
ほか個展、グループ展、パブリック・コレクション多数。
東京在住。
主な写真集に
・『In My Room』(蒼穹舎 2005)、
・『男の乗り方』(Akio Nagasawa Publishing 2009)、
・『カスババ』(大和プレス 2011)、
・『まなざしに触れる』(新城郁夫との共著 水声社 2014)、
・『光の欠落が地面に届くとき 距離が奪われ距離が生まれる』(エディション・ノルト 2016)
がある。
協力:Yumiko Chiba Associates, Zeit-Foto Salon
日常/非日常の連続/不連続
花田伸一[キュレーター/槻田小学校おやじの会OB]
今回、鷹野氏は展覧会場である Operation Table の立地する八幡地区の風景、とりわけ家屋の外観にレンズを向けた。私の住居は Operation Table から1キロと離れておらず鷹野氏が今回撮影した地域は私の生活圏内でもあり、よく見慣れたはずの景色である。が! そこには何とも見慣れない景色が写っていて大いに驚いた。「ああ、あの場所ね」ではなく、「これ、あの場所だけど、こんなんだっけ?」なのである。全くもって写真が真を写していない。いや、待て、逆に、私が真だと思っていたものは全く真ではなかったということだ。真には色々な形がありうる。こうした既視感のリセット作業は心地良いものだ。
真とは常に揺らぎの状態にあって、ある一定の手続きを経ていったん固定される。シャッターを押す、言葉にする、スケッチをする、などの手続きだ。その中に、当たり前のものとして見過ごす、という手続きを含めてもいいだろう。このようにして私たちにとって真とは常に後付けで発見されるものである。その際いったん忘却の手続きを経ていることで発見の鮮度が上がる。歴史の営みも同様だろう。歴史も常に忘却を経たうえで物事の真偽が後付けで固定される。
鷹野氏の撮影した風景写真は主に家屋のハイブリッド感あふれる造形要素に注目しているのだが、それらの家屋の外観を生み出すもととなった八幡地区の歴史を感じさせる一つの要素として、地元の古い家族アルバムから借用してきた家族写真の一群が会場に並べてあった。昭和30年代のものが多いようだ。昭和40年代生まれの私にとってはそこでの生活感は見慣れたものではなく、その忘却の過程を共有していないので、身近ではない生活感を見ながら現在の身近な生活圏に繋げていくというスローな翻訳作業を要したが、その時代を共有した世代にとっては翻訳作業を介さずに直感的に得られるものがより多くあっただろう。
整理すると私は鷹野氏の風景写真を通して八幡地区の空間的な既視感を再構成できた。それに加え昭和30年代を共有した世代は家族写真を通して八幡地区の時間的な既視感を再構成したことだろう。
さて、このように美術家がある場に非日常を連れてくるとき、その場が自分にとって日常の場であれば大なり小なりハレーションが生まれ、軽く目眩を味わうこととなる。それはスリリングな経験だ。私はキュレーターとして地域の中でのアート・プロジェクトを手がけることが多いのだが、自分の住む地域でアート・プロジェクトを第三者として経験したのは初めてだ。今回の鷹野展を通じて今さらながらではあるが、なるほど地域住民はこのような気持ちでアートに接するのか、という体験を自分事として贅沢な形で経験することができた。
美術家たちが自ら住む地域で何かしらの表現活動を展開する例はよく聞く。美術家にとって非日常を紡ぎだすのは日常の延長であり地続きのことだ。つまり美術家たちは非日常を紡ぎだすために自らの日常を差し出している。一方それを支える側のキュレーターはどうだろう。自らの日常を差し出して非日常を召還するキュレーターがどれほどいるだろうか。そう考えるとつくづく Operation Table とは稀有な場だと思う。
最後に本展は、私の生活圏内である地元の市場で私自身の日常のありったけを差し出して取り組んだ「Y式」な企画、すなわちハイブリッド感あふれまくる『槻田アンデパンダン—私たちのスクラップ&ビルド展』とも連携しつつ開催されたものであることを記しておきたい。Y式、万歳!
この展覧会は「槻田アンデパンダンー私たちのスクラップ&ビルド」展(2017.8.5- 8.26@筑豊商店街)と連携して開催されるものです。
https://www.facebook.com/Tsukida-Independent-Show-19214178…/
鷹野隆大 Y式
吉田暁子(福岡市美術館学芸員)
展示空間の印象は、軽い。勢いこんで出かけた私は、まずはまんまと肩すかしを食った。水色のタイル張りの柔らかな空間に、被写体となった八幡の家並と同じように淡々と、モノクロームの写真が展示されている。
「Y式」という展示タイトルは、鷹野がこの地の家並に見出した、ある特徴につけた呼び名であるという。写されているのは何の変哲もない家屋の壁面や歩行者用の柵、アスファルトの道路である。部分的な増改築を繰り返した結果、向きも質感も異なる屋根や壁が無節操に合体しているというその特徴は、言われなければ気づかないほどあっさりととらえられている。奥行きや陰影を感じさせない平淡な撮り方は、むしろ非凡な印象を与えることを警戒しているかのようだ。見ていると、こうした住宅は何も八幡の専売特許ではなく、その気になれば全国津々浦々で見つかるものではないのかという疑問が沸いてくる。「Y式」という、「八幡式」とも「山形式」とも、はたまた「ヤマハ式」とも特定できない命名からして、作者はそのことに自覚的なのだろうという気もする。そういえば、道の分岐点を正面からとらえたショットは、横尾忠則の《Y字路》を連想させる。標準的で退屈なニッポンの住宅地、それが今回の主題だったのだろうか?にもかかわらず鷹野は、オープニングトークを「皆さんの周りには、こんなに面白いものがたくさんあるので、どうぞ楽しんで下さい」と、水野晴郎ばりの紋切り型でしめくくったのである。一体、どういうことだろう。
もうひとつのシリーズは、八幡の住人が所蔵する50年前のアルバムから鷹野が選んだ人物写真を引き延ばしたものと、同じ場所で鷹野が新たに撮影した人物写真を並べるシリーズである。50年前とおよそ同じ地点で、変わったり変わらなかったりした風景(50年前の写真では背景に山が見えていたが、石灰の掘削で山がほとんど姿を消しているというものもある)と、その前で当時と同じ、あるいは当時写っていた家族と同じポーズを取るモデルたち。みな穏やかな微笑を浮かべている。その表情は、50年前を再現して写真を撮るという、彼等の日常に闖入したシチュエーションを受け入れていますよ、とつつましやかに伝えてくるようだ。それ以上でもそれ以下でもない、成熟した大人の顔である。視線はカメラを直視するものもそうでないものもある。カメラを直視する場合も、そのまなざしが私たちを射貫くことはない。出来上がった画面の上を視線が漂っているような、一枚ベールを隔てた表情に触れているような感覚がある。遠くを見る目という言い方が近いかもしれない。手術台や棚に並ぶ実物の家族アルバムは、打って変わってにぎやかだ。レトロなCMに出て来そうな短い前髪の子供達に、白い丸首シャツで笑う壮年の男性。
栃木県立美術館の「中国現代美術との出会い ―日中当代芸術にみる21世紀的未来」(2009年)で見た「男の乗り方」、鷹野とモデルとが並んで映る「おれと」[註] などの人物写真を通じて鷹野隆大を知った私にとって、この展示が「軽い」ものだったことは冒頭で述べた通りである。だから私は、展示室に置かれた過去の作品集とポートフォリオを読むことにした。「おれと」の鷹野隆大ではなく、「Y式」をつくった鷹野隆大を知るために。そして『カスババ』と出会った。
撮られた風景の平凡さは、『カスババ』の中の無名の空間も、今回八幡で撮られた空間も、大差はない。しかし『カスババ』で大量に撮影された、全て似たようでいて似ていない空間がかき立てる、焦りのような感覚は何だろう。一歩踏み外せば(もちろんこれは比喩、見る意識を少しでもゆるめれば)国内のどこにでもありどこでもないような、美しくも慕わしくもないのっぺらぼうの町をさまようことになるのではないか、過去そんなことがあったのではないかという記憶をまさぐらせる、寂しい焦りである。そこに「カス」と名付ける攻撃性に、私は全ての共感がそうであるように、ひそかに共感した。探し探され、隠し隠れる終わりのないエネルギーをつぎ込む「場」への飢えた思いが、『カスババ』の分厚いページを最後までめくらせたのであるが、その思いが、写真を撮った鷹野の視点に重なるのかどうかは分からない。
鷹野は、無数の「カスババ」(カス=「滓」、ババ=「場」の複数形)たちにつきつけた飢えた視線を、北九州の町で平和に佇む「Y式」には向けていない。だから、過去の痕跡というほぼ万人に共通する関心事を通じて、八幡とひとまず括られる範囲の土地のありように、控えめに触れてみたのだろうか。この展覧会のオープニングと同時に閉幕した「槻田アンデパンダン」(見逃してしまった私はこれについて評する資格がない)が、ある商店街の立ち退きという現実を契機としていたように、実際の町並みは否応なく変化にさらされているという現実がある以上、穏やかに古びていく地方都市というステレオタイプに抵抗し、闘う表現は常に必要とされる。しかし、それとは無関係なよそものの距離感が可視化されることは少ないのかもしれない。
私は「Y式」という展示を、まだ発生してもいない関係性に不用心に突っ込んでくることのない、大人のコミュニケーションととらえることにした。だとすれば「どうぞ、楽しんで下さい」という発言は、むしろささやかな挑発ではあったのかもしれない。私自身、初めての写真展評を依頼されるという思いがけない出来事に右往左往しながら、日々の活動において折々顔を出す「専門」や「郷土」という枠に緩くしばられつつ、それに気づかないふりをしたり乗っかってみたりという隠微な駆け引きを繰り返す自分の怠惰さにうんざりしている地方学芸員として、その挑発をちょっぴり嬉しく思ったことを、ここで告白する。
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[註] 「今日の写真」愛知県美術館、2014年では、警察によってわいせつ物として展示撤去が要求され、布によって男性器を隠すことで展示続行された。著者は福岡市美術館ニュース『エスプラナード』177号(2014年)において、「画を隠す布-『画/布』展紹介に代えて-」としてこの事件を取り上げたが、展示は未見である。
鷹野隆大ワークショップ
「八幡たんけん会あるいは写真に音楽を見る会」
日時 2017年9月30日(土) 14:30-17:00
場所 Operation Table
参加費 1,000円
参加者はデジタルカメラあるいはカメラ付携帯を持参、Operation Table/QMACに集合し、1時間ほど近辺の町を探検しつつ撮影します。その後、各自撮った写真の上映会を行います。雨天の場合は、展示中の写真に音楽曲を当てていく、という内容となります。
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