横溝美由紀 光の箱/GRID
2017.5.5(金・祝)-7.17(月・祝)
11:00-18:00 土・日のみオープン
平日は予約制 090-7384-8169
オープニング;アーティスト・トーク
2016.5.5 Fri. 16:00-17:00
トーク終了後レセプションあります。
参加費 1,000円(トークのみは500円)
T.B.A.O.V.G.O.B.N.N.M.T.B.V.A.L.
必ずしも光の箱とみなされることを意図しない透明の箱およびその他の箱の上の眼にみえるグリッド
彩色した糸を弓のように弾き痕跡をのせるという、パフォーマティブに生成されるキャンバス。
床においたり卓に載せたりする立体は、たいてい箱型でしかも中は空っぽ。
このような横溝の作品を彫刻とも絵画とも呼ばないとしたら・・・と、それらを「光の箱」と名づけてみた。
やや違和感が残るのは、「光の箱」といっても、それ自体で発光する技術的な物体ではなくて、光を透過し反射する物体という、きわめて他律的で自然なものだから。横溝の作品はこのしなやかな光に満ちている。
しなやかにして形式的な統一感のある横溝の作品群を、オペレーションテーブルの雑音の多い空間に配置してみる。
すると潜んでいた壁や床や天井のグリッドが浮かび上がり、そこが中立的な空間に変貌していく。
光の箱/GRIDの手術をみなさま、どうぞ目撃してください。
横溝美由紀 略歴
1968 東京都生まれ
1994 多摩美術大学美術学部彫刻科卒業
2001 文化庁派遣芸術家在外研修員(ニューヨーク)
2004 国際芸術センター青森(青森)春のアーティスト・イン・レジデンス
2005 国際藝術研究センター第1期研究員(宮島達男フェロー)
個展
1995 「Bath Room」 Gallery Q (東京)
1998 「Raining, Criterium37」 水戸芸術館 (茨城)
2000 「休息の光景」 セゾンアートプログラム (東京)
2002 「Please Wash Away」 Snug Harbor Cultural Center New house Center for Contemporary Art (ニューヨーク)
2005 「invisibility」 Galerie Aube 京都造形芸術大学国際藝術研究センター (京都)
2015 「DWELL」 ozasahayashi_kyoto (京都)
グループ展
2000 「プラスチックの時代、ART AND DESIGN」埼玉県立近代美術館(埼玉)
2002 「傾く小屋」東京都現代美術館(東京)
2003 「盗まれた自然」 DIC川村記念美術館 (千葉)
2008 「CAMOUFLASH/Disappear in ART」UNOACTU(ドレスデン、ドイツ)
2011 「Homage 高倉健ー手術台の上の花とドラゴン」Oparation Table
2012 「六甲ミーツアート2012」六甲山ホテル(神戸)
2017 「クインテットⅢ」損保ジャパン日本興亜美術館(東京)
2005–2017 「未来への回路―日本の新世代アーティスト」国際交流基金、世界巡回中
このほか個展、国際展、アーティスト・イン・レジデンス参加多数
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(図版キャプション )
1.「HOMAGE 高倉健ー手術台の上の花とドラゴン」(2011@Operation Table) 横溝出品作
2.世界巡回中の「未来への回路-日本の新世代アーティスト」展 横溝出品作 ”PLEASE WASH AWAY”
横溝美由紀「光の箱/GRID」
鷹野隆大
ふとした手違いで裏口から会場に入ってしまった。梅雨空の蒸し暑い昼下がり。
そこにあったのは、手術台のうえに整然と積み重ねられた寒天、、、と見まがうような半透明の物体。ひとつひとつが煉瓦ほどの大きさで、100個ほどもあっただろうか。暑気に涼。とっさに、おいしそうと思ったりしたのだが、この涼味は水を連想させるところから来るのだろう。
水には形がない。表面が揺れるとき、光を乱反射することから所在が知れるが、水そのものを見ることはできない。
ここに展示されているのは“表現されたもの”というにはあまりにも素っ気ない作品である。直方体の物体を積み重ねてその相似形を拡大再生しただけ。しかも半透明。それは水と同じように“見る”ことが難しい。もしここが展示空間であることを知らなかったら、間違いなく見過ごしていただろう。
しかしその一方で、たとえ展示物とわからなかったとしても、この物体が目に入った瞬間に感じたこと(寒天→涼味)が体に残ったであろうことも確かである。つまり作品としてではなく、環境として何かを感得するように仕組まれているのである。
別の作品では、鈍く光る長方形の銀紙が上下2段に20枚ほど、整然と壁に貼り出されている。銀紙は湿気で波打ち、反射する光の強さも形もまちまちだ。
ぼんやりした光の強弱は、見るものに“距離”の幻覚を与える。加えて、格子状になった銀紙の境目が窓枠とも見え、結果として磨りガラスの向こうでぼんやりときらめく光を見ているような錯覚にとらわれる。鈍く光を反射する銀紙が半透明に化ける奇妙な瞬間だ。そしてこの作品もまた、建物と一体化し、“見えない作品”となっている。
作品が展示されているギャラリーはかつて動物病院だった。会場に手術台があるのはそのためで、他に消毒した脱脂綿を入れるステンレス容器やタイル張りの壁が昔を偲ばせる。タイルは水色で10センチ程度の正方形。作品を見る者は白い目地で区切られた碁盤の目状の壁がいやでも目に入る。
その壁にかけてあるのが、油絵の具で縦横に線を引き、それを幾重にも積み重ねた作品である。
ほとんど擬態と言ってもよさそうな気さえするが、それぞれの作品は黒と白と赤。黒は吸収色で、白と赤は膨張色だ。もしこれが青や黄色だったら、ほんとうに溶け込んでしまっただろう。膨張色や吸収色の作品を持って来ることでタイル張りの壁に対する異質感を強調する結果になっている、はずである。にもかかわらず、まるで擬態でもするように“見えなくなる”ところに、この展示の重要なポイントがあるような気がする。
手術台のある診察室から短い通路を抜けて受付のある待合室に出る。受付のボックス内には、あちらこちらに絵の具のチューブ様の物体をねじった銀色の作品が置かれている。“重さ”を感じる点で、他の作品と異質だ。とっさに、やや無骨な指先で作者がこれらのチューブをキュイっ、キュイっと苦もなくひねりあげる様子が頭に浮かぶ。もちろん本当に手でひねっているかどうかは分からないが、なにかしら“身体”を感じさせる作品である。
その背後、入り口を入ってすぐ右上の壁一面には、石けんを
ドロップ飴のような派手な色をしたそれらが外光を受けて鮮やかな色を放つ。まるでステンドクラスのように美しい。しかしその作品は既製品で構成され、店舗の洒落たディスプレイとすら思える素っ気なさだ。作者の“感情”らしきものはどこにも見当たらない。むしろ、ビニールケースに閉じ込められた“光”が、一点一点切り売りされているかのようだ。
“石けん”の向い側のガラスケースには、蓋をあけた重箱のような作品が飾られている。外観は銀色で内側は金色。これは金箔だろうか?(作品リストがないので素材の詳細は不明だが、これが金箔だとすると、隣の部屋の銀紙に見えたものは銀箔を紙に貼付けていたのかもしれない)
箱の内側、とりわけコーナーでは光が激しく乱反射し、
待合室に展示されている作品の特徴は、存在を明らかにしているところか。一方、診察室の作品に共通するのは同化か。
“表現する”ということを極限まで排除したあとに伝わるものは何か。使われている素材や形態の意味が無化された感覚だけの世界。この場合、手触りならぬ目触り。網膜に映る純粋な目の感覚とはこのようなものかもしれない。あるいは、脳内のシナプスが移動する風景か。などと考えながら、会場を後にした。
2017.7.12
色の器、光の箱。
横溝美由紀が手がける「空間の手術」
梅津元(埼玉県立近代美術館主任学芸員/芸術学)
[0]
北九州のアートシーンを牽引するオペレーション・テーブル(Operation Table)を初めて訪れた。動物病院の施設を展示スペースに転用したこのスペースの噂は各方面から聞いており、一度訪れたいと以前から思っていたが、これまでその機会が得られずにいた。このたび、筆者が継続して関心を寄せている横溝美由紀の個展「光の箱/GRID」を見るため、ようやくオペレーション・テーブルに足を運ぶことができた。
会場のドアを開けると、右側の壁面に《Please wash away》が見えてくる。思い起こせば、横溝美由紀の名前は、このシリーズの鮮烈な印象とともに記憶された。横溝は1990年代中頃に発表活動をはじめているが、筆者はこの頃から現在に至るまで、その活動に注目している。こうした活動への注目から、埼玉県立近代美術館での「20世紀最後の企画展」となった「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000年)の際、横溝に出品を依頼した。その後も、「傾く小屋」(東京都現代美術館, 2002年)、「盗まれた自然」(川村記念美術館,2003年)など美術館での発表が続き、また、国内外のレジデンス等にも積極的に参加している。
2000年代の中頃に横溝が京都に拠点を移したため展示を実見する機会がやや減ったものの、近年は東京で開催される個展やグループ展などの発表の機会をできるだけ逃さないようにしている。このように、20年以上にわたり、着実にキャリアを重ねてきた横溝にとっても、旧作から新作までを含む充実した展観が実現したのは、今回が初めてである。筆者は、以下に詳述するように、この展示にじっくりと向き合う得難い機会を得て、このアーティストの力量と魅力を改めて実感した。この貴重な機会に、一人でも多くの方に、横溝美由紀の芸術の世界を堪能してもらいたい。
[1] 色の器
《please wash away》(インスタレーション作品)および《soap》(単体作品)の最大の魅力は、「真偽の彼方」を志向している点である。「本物/偽物」、「正しい/間違い」という倫理的な価値判断を孕んだ二元論的態度を軽やかにすりぬけるカラフルな光と色彩が、「第三の存在」=「オリジナルでもコピーでもないフェイクな存在」という観念を発生させる。「オリジナルとコピーという概念を失効させるフェイクな存在」は、現代社会の光と闇の双方に関わっているという感覚がある。
旧病院の受付であったエリアも、展示空間として巧みに利用されている。受付カウンターの奥の棚には、絵具のチューブを型取りした〈torso〉シリーズが配置してある。また、石鹸を型取りした《soap》は、壁に設置された円形の鏡の前に配置されている。この展示は、極めて刺激的である。フェイクな石鹸として存在している物体が、さらに虚像として反転し、鏡にうつる。この状況を見ていると、なぜだか、鏡にうつる像の方にリアリティーを感じてしまう。おそらく、その像は触れることができず、重さを持たず、イメージとしてのみ認識されるからだろう。横溝のフェイクな石鹸は、素材や重さから解き放たれ、鏡の中で、その存在を謳歌しているようだ。
さらに連想が飛躍する。鏡にうつるイメージは、横溝の作品の「視覚性」を抽出している。ここから遡ると、そもそも、横溝のフェイクな石鹸は、石鹸の視覚性を抽出し、新たな実体化を遂行していることがわかってくる。横溝の作品が石鹸を模していることは確かだが、それは石鹸のコピーではなく、「別な」存在を志向している。そのことを、鏡にうつる像が教えてくれる。
別な言い方をすれば、横溝のフェイクな石鹸を、石鹸の「容器」とみなすことができる。石鹸は使えば水に溶けて徐々に小さくなり、いずれ消滅する。しかし、使用前の石鹸の外形にぴたりと一致する透明な「容器」が仮にあったとすれば、石鹸がなくなった時点で、透明な容器だけが、石鹸の抜け殻のように残るだろう。横溝の《soap》は、この透明な石鹸の抜け殻に、新たな物質を充填したものとみなせる。その充填に用いられているのは、半透明の樹脂である。その多様な色は石鹸の多様な色彩を、その透明性は、ここで仮想した石鹸の透明な容器に、それぞれ由来すると考えられる。横溝の《soap》が、第三の存在としてのフェイクな石鹸という存在様態を更新し、「色の器」としての主張を始めている。
ところで、「色の器」とは、まさに、〈torso〉シリーズがモチーフとしている、絵具のチューブのことでもある。実は、〈torso〉シリーズと《soap》が、同じ棚に配置された展示が、筆者に、「色の器」という発想をもたらし、さらに、鏡にうつる《soap》が、この思考を加速させたのである。横溝は、絵具のチューブがゴロゴロしている状態が気になって仕方なかったと話してくれた。
それ自体で形をもたない、粘性のある液体である絵具は、なんらかの「容器」がなければ、流れ出してしまい、運んだり使用したりという機能を果たすことができない。そして、絵具を使用するために、チューブは、押しつぶされ、折り曲げられ、捻られ、様々に変形される。つまり、絵具のチューブは、使用に伴って変形する「色の器」でもある。《soap》と〈torso〉シリーズを共通する視点から把握することを可能にしてくれる「色の器」という発想は、この展覧会のタイトルに採用されている「光の箱」とも不可分に結びついている。
[2] 光の箱
会場入口の左側には、かつてこの施設で使われていた棚が置かれ、その中に《box #3》が展示されている。上面が開口した状態の、同じ形の箱がふたつ。外側は同じ銀色で、錫の箔が貼られている。内側は箔の素材が異なるため、見た目の色味も違っている。向かって左は、銅の箔が内側に貼られており、赤味がかった金属色。向かって右は、真鍮の箔が内側に貼られており、黄色味を帯びた金色。
内側の反射が、光を湛えた状態を出現させ、色彩の充満、光の横溢を感じる。そのため、外形の認識と内側のヴォリュームの知覚が一致せず、視覚の能動性がひきだされる。いつまでも見ていたいと思わせてくれる、極めて魅力的な作品である。長い時間見ていると、光と色彩の効果により、箱状の形を物理的に担っている板の厚みが、徐々に把握できなくなってくる。一般的な物体は、眺める時間と比例して、その物体の組成や形状に対する認識は徐々に正確さを増してくるはずである。しかし、この作品の場合は、時間の持続が対象の正確な把握に直結せず、知覚においても、認識においても、意味においても、一元的な安定した把握には至らない。ドナルド・ジャッドや竹岡雄二の作品を見る際に発生するようなこうした経験こそ、視覚において把握される芸術作品の醍醐味といえる。
この〈box〉シリーズは、今回の展覧会のタイトルにも採用されている「光の箱」という言葉が、まさにふさわしい。この作品の内側に孕まれた空間を、そのままそっと取り出してみたい気分になる。そして、その気持ちにこたえるかのように、メインの展示室では、《aero_sculpture》が待ち受けていた。《aero_sculpture》は、その名の通り、まずは「空気の彫刻」として捉えられるだろう。《box #3》とほぼ同じような大きさの、透明な箱が単位となっている。手術台と思しきふたつの台に、それぞれ、この箱が、規則的に組み合わせて積み上げられている。ひとつひとつのユニットは、華奢な印象であるが、厳格な規則性を感じさせるものではなく、近づくと、手作りの感触が伝わってくる。同じ単位が量的に存在しているが、個体差が認められるのである。
さらに、入口から向かって正面左側の窓枠にも、この箱がきれいに積み上げられている。それは、あたかも、厚みのあるフィルターのようである。ひとつひとつの個体差が、光の透過の具合に微妙なゆらぎを生じさせている。左右の窓ガラスの透過性にも差があり、外の風景がおぼろげに見えたり、抽象的な光の効果が感じられたりしている。レースのカーテンが厚みを持ってしまったような、あるいは、レンガブロックが半透明と化してしまったような、抗いがたい魅力を湛えた佇まいである。
[3] 空間の手術
窓枠に穿たれたような《aero_sculpture》は、垂直と水平のラインによって、窓枠の空間にナイフを入れ、「空間を切り分けている」ように見えてくる。この発想が、手術台の上の《aero_sculpture》にも及んでくる。ブロックに切り出された氷やドライアイスを想起させていた、その半透明のユニットが、ひとつひとつの単位、積まれている物体という認識から溶け出してくる。そして、積まれている状態そのものが知覚において優位に立ち始めると、複数のユニットから形成されている水平の線と垂直の線が、認識においても優勢になってくる。
この段階において、《aero_sculpture》は、単位となる箱の集積という物理的な成立から解放され、積み上げられた空間全体のヴォリュームとして把握されている。そして、驚くべきことに、積み上げられた全体の構造から見えてくる水平の面と垂直の面が、その「空間全体のヴォリュームを切り分けている」という感覚をもたらすのである。いまや、手術台の上の生物は必要なく、解剖台の上の物体も必要ない。手術台の上の「空間そのもの」が、あたかも手術の最初の工程のように、「切り分けられている」のだ。
この感覚にしばし浸ってから、改めて、積み上げられている単位としての《aero_sculpture》に目を向ける。すると、それまで気にしていなかった、透明テープによって形成されている、その成り立ちが、別な意味をもって迫ってきた。つまり、空気の彫刻というコンセプトから要請されたと推測される透明テープの使用が、「切り分けられた空間」を「縫合」しているように見えてきたのである。「縫合」は、手術の最終段階である。ならば、《aero_sculpture》は、実際の手術とは逆に、「空間の縫合」としての単位を積み上げることによって、「空間を切り分けている」のである。
このように、《aero_sculpture》に対する把握が、「空気の彫刻」から「空間の手術」へと更新される感覚が生じたのは、もちろん、オペレーション・テーブルという空間の個性に起因するところが大きい。しかし、より本質的な意味おいて重要なのは、《box #3》と《aero_sculpture》を、「光の箱」という視点から相補的にとらえる発想である。このような発想が生まれたのは、横溝が、この個性の強い空間を強引に支配することなく、極めてニュートラルに、この空間になじむ展示構成を実現したことに多くを負っている。その意味でも、本展は、アーティストとしての横溝の力量に唸らされる、秀逸な展示を実現させている。
[4] GRID
箱型の単位を連結して横に長い構造を作り、壁面に設置した《box #40》は、「切り分けられた空間の実体化」を予感させる。この作品を見ていると、彫刻の本質である「存在することの謎」が、視覚をとおして浸透してくる。また、銀色の箔に白のエナメルが走る《Untitled(drawing)》では、銀と白が同じ次元に存在しているとはどうしても感じられず、異次元空間の衝突という局面が想起されてしまう。
一方、一見すると絵画・平面作品として見えてくるであろう《veil》のシリーズでは、油絵具それ自体が強く主張している。線をはじく行為の反復によって形成されるこのシリーズは、いわゆる絵画的なイメージの創出を目指してはいない。この制作方法は、すでに指摘されているとおり、彫刻的であり、物質的な側面が強い。彫刻的であるからこそ、重力の関与が重要であり、線は垂直もしくは水平にセットされるのだろう。また、《veil》シリーズを見ていて感じたのは、スケール感である。特に、白が基調となる作品に向き合うと、雪に覆われた大地を上空から俯瞰しているような感覚が生じ、ミクロとマクロが瞬時に入れ替わる。このようなスケール感、大地を俯瞰するような感覚も、重力とは無縁ではなく、この作品が視覚的なイメージへと統合されず、彫刻的な感覚を漂わせていることと連動している。
ここまでの記述によって、今回の展示が、「GRID」をキーワードに計画されていることは、すでに明らかだろう。準備段階において、横溝の作品にも、このスペース自体にも、様々な形で、グリッドないしグリッド的な構造が見いだされたという。そこで、最後に、この点について、考えてみたい。すでに指摘したように、横溝は、伝統的な彫刻とはスタンスが異なるかもしれないが、「彫刻的な出来事」を志向している。横溝の物体との関わりは、「彫刻を問うこと」、「存在を問うこと」、「光を可視化すること」、「行為を持続すること」、「空間を意識すること」、「重力を意識すること」へと向けられている。タイプが異なるとしても、重力を意識することから垂直と水平という特徴が導かれる。また、行為の反復は、単位の集積や連続的な配置へと至るため、単体において、あるいはインスタレーションにおいて、あるいは展示構成において、水平と垂直の構造が出現しやすくなる。
従って、今回の展示においてグリッドが顕在化したのは、横溝の基本的態度から導かれる必然であったといえる。しかも、横溝が「彫刻的な出来事」に向き合っている以上、そのグリッドは、二次元上の平面分割にはとどまらず、三次元の構造を要請する。三次元におけるグリッドは、ソル・ルウィットに見られるような立体格子としては想起しやすいが、横溝は、色彩、光、透過性を武器に、「空間を切り分ける」ことで、三次元のグリッドを具現化しようとしている。