石炭と鉄/山本作兵衛 ✕ 青木野枝
やはたアートフォレスト 2023~パレットの樹~関連企画 遠賀川神話の芸術祭2023〜
石炭と鉄/山本作兵衛 X 青木野枝
🔹会期: 2023.11.5 SUN.〜11.26 SUN.
金土日11:00~18:00オープン 月〜木はメールまたは電話で前日までに連絡いただきオープンします。
tel;090-7384-8169 email; info@operation-table.com
🔹会場:Operation Table
805-0027 北九州市八幡東区東鉄町8-18
https://www.operation-table.com
企画・八万湯プロジェクト実行委員会
http://www.ongariverart2023.wordpress.com
北九州市文化芸術活動支援事業2023
※ 上段:青木野枝 下段:山本作兵衛
古くから大陸との関係が深い遠賀川地域は、筑豊の石炭長八幡の鉄工業が近代化を牽引してきました。遠賀川神話の芸術祭2023の一環として、Operation Tableでは「石炭と鉄/山本作兵衛X青木野枝」と題して、世界記憶遺産・山本作兵衛の炭坑画原画9点(個人蔵)と青木野枝の鉄鋼作品の新作に石炭を組み合わせたインスタレーションの展覧会を開催します。石炭と鉄のダイナミックな出会いがOperation Tableの空間を圧倒します。
関連イベント
◎遠賀川神話の芸術祭オープニングセレモニー
展覧会紹介+アーティスト・トーク
日時:2023年11月5日(日)午後2時〜3時
会場:JRスペースワールド駅前広場(まつり起業祭八幡2023会場内)
◎ギターと歌のライブ炭坑歌をうたう/奏でる」
ギター:末森樹 ✕ 歌と語り:山福朱実
日時:2023年11月26日(土)午後2時〜3時半
会場:Operation Table
会費:2,000円(ドリンク付)
会場入口すぐの小室にTatjana Preuss作「ミセモノ屋台」をおいています。2013年にOperation Table開設記念第3弾「とらんしっと:世界通り抜け」に出品されたもので、11年ぶりの公開となりました。
https://operation-table.com/transit.html
Tatjanaは今年末、糸島のSTUDIO KURAアーティスト・イン・レジデンスに参加のため「ミセモノ屋台」を糸島へ巡業しますが、それまでの2ヶ月、Operation Tableで開催される展覧会の関連作品も展示されます。2012年からミセモノ屋台に搭載されているミニギャラリーにはTatjanaの友人アーティストの作品が入っていましたが、それらも復活予定です。
作兵衛升歌(クリックするとPDFが開きます)
栓友〜作兵衛・タツノの場合(クリックするとPDFが開きます)
【石炭×鉄×酒】
上野朱
なるほど、こういう組み合わせの展示もあったのか、とあらためて気付かされたのは、2023年11月に開催された「石炭と鉄/山本作兵衛 ✕ 青木野枝」への、原画貸し出し依頼を受けた時のこと。主として明治・大正期の炭坑を描いた作兵衛さんの絵と、戦後に撮影された写真を組み合わせた展示(時代を越え、互いに補完しあって興味深かった)を見たことはあるが、鉄鋼作品そのものとの競演は初めてだった。
改めていうまでもなく、石炭と鉄は切っても切れない関係である。木炭を用いた「たたら製鉄」は別として、大規模な製鉄には燃料となる石炭(コークス)がなければ成り立たず、八幡村(現北九州市八幡)に官営製鉄所ができたのも、遠くないところにこの国最大の産炭地・筑豊があったから、というのは知られている通りだ。
豊富な石炭がなければ製鉄業は成り立たない。しかしそこから作られた鉄製の道具や機械なくして大量の石炭を採掘することもまた不可能だ。一体となって近代の発展(戦争や公害などの忌まわしい記憶を含め)を支えてきた両輪のような存在の石炭と鉄だが、それぞれを主題とする作品の出逢いの場となったのが、かつて八幡製鐵所が設けられた北九州市八幡東区のOperation Tableだったというのも何かの因縁かもしれない。
炭坑の記録画家として知られる山本作兵衛さん(1892-1984)の肩書きは「元炭坑夫」と記されることが多いが、鉄との関わりも極めて深い人生である。石炭を運ぶ川舟船頭だった父が炭坑夫に転身するのに連れられて上三緒炭坑(現飯塚市)に移り住み、両親の手伝いとして初めて坑内に下がったのは7~8歳の頃という。
幼い頃から絵を描くのが好きでたまらなかったというが、思うように尋常小学校にも通えないような家計では絵など学べるわけもなく、12歳で山内炭坑の鶴嘴鍛冶に弟子入り。14歳で同坑の坑夫となったが、20歳の時に一旦炭坑を離れ、九管局鉄道工場小倉工場の鍛冶工見習いとなる。
以後も短期間だが八幡製鉄所でも働き、筑豊に戻ってからは採炭夫や坑外鍛冶、機械夫として、閉山でヤマを追われる62歳まで炭坑ひと筋に働き抜いた作兵衛さん。その後夜警の仕事の合間に炭坑記録画を描かれるようになり、次第にその画業が知られてゆくようになるのだが、その血肉となったのは半世紀にわたって苦楽を共にした石炭と鉄であり、全身を巡って絵筆のエネルギーとなったのは酒、といってもいいかと思う。
今回の作兵衛さんとのコラボレーションは青木野枝さんからの希望と聞く。昔の炭坑においては、通常は男性が先山として炭層に挑み、女性は後山として石炭の搬出を担っていたが、時として自ら鶴嘴を握って石炭を掘り出す(切り出す)女性もあったといい、作兵衛画にも「勇婦のキリダシ」という1枚がある。
坑夫そして鍛冶技術者として働いた作兵衛さんの目に、遥かに年若い女性である青木さんが鉄を相手に奮闘される姿はどのように映っただろうか。「いやなかなかの勇婦ですな」と相好をくずしながらコップ酒を口にしておられる姿が、溶接の火花の向こうに見えはしないだろうか。
【×歌】
先にも少し触れたが、石炭と鉄と共に生きた作兵衛さんを語る上で絶対に欠かすことのできないものは酒、そして歌だった。妻のタツノさんと2人暮らしの家に客を迎えればまず酒。酒の飲めない客にはサイダーをすすめて自分は酒。お孫さんの話によれば作兵衛家で出される吸い物にはほとんど汁がなく、椀の中はわずかな出汁をまとった具のみだったということで、「汁を飲むと腹の中で酒が薄まる」という理由からであったと。
そして酒が入ると必ず飛び出すのが歌だが、作兵衛さんの場合は「月が出た出た」で知られる『炭坑節』ではなく、もっと古い時代から歌い継がれてきた『ゴットン節』という坑内唄だった。愛しい人を想い、身の上を嘆き、横柄な上役を揶揄するかと思えば、なかなか色っぽいことがらも歌い込んだ『ゴットン節』は地の底のワークソングであり、仕事のつらさを紛らわせる気晴らしだった。
タツノさんから「じいちゃんのは、いっぺんいっぺん節が違うもん」と言われてもお構いなしに、作兵衛さんの口からは『ゴットン節』や『ハイカラ節』、果ては『禁酒会の歌』までがとめどなく溢れ出し、入れ違いにコップに注がれた日本酒がこれまたとめどなく喉を駆け下っていくのだった。
そんな作兵衛さんと酒の固い契りを歌にしてみたのが『作兵衛升歌』。陸蒸気のために船頭の仕事を奪われた作兵衛さんの父にちなみ『鉄道唱歌』の節に積み込んだ。
また、若い頃にはさんざん苦労をかけ、老後には日々小言を言われながらも命尽きるまで絵筆を握ることができたのも、妻のタツノさんという存在があったればこそ。「酒は栓を開けたままにすると蒸発して水になる」と、注ぐが早いか栓をしておられた作兵衛さんだが、「清酒作兵衛」もタツノさんという栓のおかげで92年物の銘酒となり得たのではなかろうか。筑豊を生き抜いたふたりはまさに戦友、すなわち『栓友』なのである。
もしこれらを歌う場合には、冷や酒で少し喉を湿らせておくのがいいかもしれない。ただしすぐに栓をするのを忘れないようにしていただきたい。
「石炭と鉄/山本作兵衛×青木野枝」によせて
落合朋子
「遠賀川神話の芸術祭2023」の一環として、operation tableで「石炭と鉄/山本作兵衛×青木野枝」が開催された。福岡県嘉麻郡(現・飯塚市)に生まれ、幼い頃から炭坑夫として働いてきた山本作兵衛さんは、炭坑の暮らしについて孫たちに伝えようと、60代から絵筆を取り、92歳で亡くなるまで、1000点を超える炭坑記録画を描いた。一方、青木野枝さんは、鉄板から溶断した円や線のパーツを溶接し、空間にドローイングを描くような軽やかな鉄の彫刻を制作し続けている。どのようなコラボレーションが展開されているのか楽しみにoperation tableを訪れた。
入口すぐの小さな部屋には、右の壁に2点、左に置かれたTatjana Preussによるミセモノ屋台に1点、作兵衛さんの記録画が飾られている。2011年に田川市と福岡県立大学が所蔵する記録画589点と日記や雑記帳など計697点がユネスコの世界記憶遺産に登録されてから、原画を間近で見る機会が少なくなってしまったが、作兵衛さんの親しい知人に贈られた記録画は、このように身近な場所、近い距離で受容されてきたのだろう。今回展示されているのは、作兵衛さんの作品を広く世に出した上野英信さんのご子息・朱さんの所蔵する9点である。丁寧に描きこまれ、鮮やかな色彩で着色された作品から、遠い過去となった炭坑での労働、人々の暮らしが、現在を生きる私たちにありありと伝わってくる。作兵衛さんの《ホリモノ》の下の段に飾ってあるのが、野枝さんの《東鉄町》という小さなオブジェである。2011年にoperation tableで開催された「見えない都市-地名の解剖学」の出品作であり、到津、三郎丸、和布刈など北九州市の地名に関連する作品を10人の作家が出品した展覧会で、野枝さんはoperation tableが位置する東鉄町を担当した。小さな丸いパーツが連結してできあがった形は、水蒸気など目に見えない物を想像させる。
つづくメイン・ギャラリーでは、壁面に作兵衛さんの記録画6点が展示され、野枝さんの《作兵衛さんに捧ぐ》というインスタレーションが展開されていた。ギャラリー中央の3台の手術台の上の《東鉄町-1》は、このたび野枝さんが釧路や三池で入手した石炭から構成される。八幡に製鉄所が建設されることになった1つの理由が、石炭が豊富に取れる筑豊炭田の存在であった。そしてまた危険と隣り合わせの中、働き続けた坑夫たちの存在があったがゆえに、八幡、北九州は鉄の都として発展し、日本の近代化を支えるに至った。そうした歴史を担ってきた石炭そのものが、墳墓のように積み上げられ、メイン・ギャラリーの中央に鎮座している。
3台の手術台の両側に並ぶのは、野枝さんの《東鉄町-2》という5本の円柱である。上下2つの輪のパーツが5本の直線のパーツで溶接され、上の輪のパーツから5つの石炭が銅線で軽やかにつられている。市原湖畔美術館で、4000個の鉄の輪を9メートルの円柱にくみ上げた《光の柱Ⅰ》(2023年)を発表するなど、野枝さんはこの秋、下から上へといった動きを感じさせる作品を制作しているが、この《東鉄町-2》は坑夫や石炭、機械などを地上から地下へ、地下から地上へと運んできた立坑を思わせる。いつもは作品が展示される水色のパネルが一部撤去されており、磨りガラスの窓からの光が作品の中を行き来し、訪れた時間によって鉄と石炭が様々な表情を見せる。円柱に取り込まれた光は、危険と隣り合わせの労働を無事に終え、地上へと向かう中、坑口から見える光を見た時の坑夫たちの安堵を思いおこさせる。
野枝さんは、鉄をメインに制作を行いながらも、卵、石鹸など様々な素材を取り入れてきたが、今回は透明なガラスがはめこまれた鉄の輪に、石炭が二つ積み重ねられた《東鉄町-3》も展示されていた。2019年の長崎県美術館の個展では、長崎の被爆の歴史に向き合い赤いガラスを使った作品が、鹿児島霧島アートの森の個展では、水俣の歴史に向き合い、波板を使った作品が制作されたが、石炭を作品に取り入れたのは今回が初めてのことである。30年くらい前に作兵衛さんの記録画を見て衝撃を受けていた野枝さんは、近年、作兵衛さんの人生と画業を追いながら、炭鉱の労働現場から日本の近現代史をたどるドキュメンタリー映画「作兵衛さんと日本を掘る」(2019年、熊谷博子監督)を見たという。作兵衛さんの記録画が私たちに提示する実に大きすぎるものに向き合い制作された本インスタレーションは、長崎、水俣の歴史に向き合って制作された作品の系譜に位置するものだろう。
今回の展示のきっかけは、2021年にoperation tableで開催された画家・河村陽介さんと写真家・長野聡史さんを紹介する「川から山へ、山から川へ カワからヤマへ、ヤマからカワへ 河村陽介+長野聡史」の関連イベント「山福朱実+末森樹 歌とギターとお話ライブ「山本作兵衛 ゴットン節を聴きながら・・・」」にさかのぼるという。河村さんと長野さんが筑豊を拠点に活動しているということで、1968年に筑豊文庫で収録された作兵衛さんが歌うゴットン節などから構成されるCD『作兵衛絶唱』や、朱実さん、樹さんの歌とギターによる炭坑節などを聞くイベントが企画された。作兵衛さんのゴットン節を聞くせっかくの機会にと、CD『作兵衛絶唱』を発行した上野朱さんが所蔵する作兵衛さんの記録画7点がサプライズで公開された。朱実さんのご尊父・山福康政さんは、上野英信さんの筑豊文庫との縁も深く、朱実さん、朱さんは幼馴染である。作兵衛さんの記録画に、ゴットン節に、炭坑節にと、筑豊をめぐる様々な表象が集結したその場所に自分もいたかったという野枝さんのリアクションから今回の展示が実現する運びとなった。
本展のみどころは、石炭、鉄に長い年月向き合い、作品へと昇華させた二人のコラボレーションだろう。できあがった作品の形態は全く異なるが、その作品は二人それぞれの労働によって実現している。作兵衛さんは10代から何十年間にもわたる炭坑夫としての労働をもとに、多くの記録画を描きあげた。一方、野枝さんの日々の制作の9割は鉄板から輪や棒など様々な形のパーツを溶断することだという。市原湖畔美術館の展示に際しては、1日約100個の円環を溶断し続けたということで、その軽やかな作品群は、鉄のパーツを溶断するという日々の絶え間ない労働から生み出されている。また野枝さんの作品の多くは、線や円から構成され、彫刻の存在がその先にある物を視界から遮らず、むしろその空間を取り込み一体となっている。溶断時に溶けた鉄が断面につく「バリ」があえて残された鉄のパーツからは、野枝さんの手仕事の痕跡がうかがえ、その先に作兵衛さんによる色鮮やかな記録画が見えと、operation tableの空間で2人の作品が見事に一体化していた。
筆者は2020年2月に所属館で「コレクション展Ⅲ 特集 鉄」を企画した。1901年に官営八幡製鉄所ができたことによって鉄の都として発展してきた八幡、北九州の歴史をベースに、鉄をめぐるさまざまな視覚的トピック、文化的事象を所蔵品を中心にたどるという構成であったが、コロナ禍で臨時休館に入り、わずか5日間の会期で閉幕となってしまった。石炭と鉄をめぐる二人の表現とこの土地の歴史が凝縮した空間に身を置き、また機会があればその続編を実現できたらと改めて思い、operation tableをあとにした。
(北九州市立美術館 学芸員)
青木野枝
1990年直方や田川に、まだ残っているというボタ山を探しに行った。
その時炭鉱資料館で初めて山本作兵衛さんの絵を見た。
階段に沿った壁に貼られていたと思う。
一体これはなんなのだろう。
極限の肉体労働、暗い地の底、危険な作業、搾取されて逃げ出すこともできない炭坑の生活。
もちろん辛い生活を描いているのだけれど、それは民話のような。
そして神話のような。
決して炭坑の生活を美化して描いているのではないのだけれど。
作兵衛さんの見たものを体験したものを誠実に描いているのだけれど。
作兵衛さんの人間としての資質が、厳しい生活を記した文章と絵を昇華させて、異なったレベルのものにしているのだと思った。
これは凄いものを見たと思った。
今回、八幡の展示の始まりは市原湖畔美術館で設置をしている時だった。
真武さんから「助成金降りた、展示お願い!」とLINEがきた。
それは10月3日のことで、私は10日後に始まる個展の設置で助手の人たちと泊まり込み中だった。
「それでいつからなの?」と返すと11月5日からの展示になるという。
でも、11月終わりにもうひとつ別の個展もあるのだった。
無理に無理を重ねても無理かなぁと思った私に「上野朱さんが作兵衛さんの絵を何点も持っていて、それを借りられると思う。」と。
作兵衛さんの原画と同じ空間に展示できる?
それでもう決まりだった。
それから作兵衛さんの絵と一緒の展示なら、絶対石炭を使いたいと思って探した。
三池炭鉱の石炭もあるのだけれど、大豆くらいの大きさが数個入って1000円以上する。
でも三池のものだからと数個買う。
硫黄分が多くて黄味がかった石炭。
その後見つけたのは、釧路の太平洋炭鉱の石炭で昔のままの20キロ袋に入っていた。
以前、閉山前に訪ねたことも思い出してこの石炭を使うことにした。
手術台の上に石炭を置いた時、光が窓から射してきて石炭がきらきらと光った。
黒いダイヤというのは輝きも含めて言うのだとわかった。
それは本当に美しい、きらめく鉱石だった。
手が勝手に動いて自然にボタ山の形に積んでいった。
手術台の上に積まれた石炭は動物のようにも見えた。
今は眠っている巨大な動物。
石炭を指で掴んで触った感触は、鉄とはまた違う乾いた粒子の塊だった。
これを作兵衛さんは掘っていたのだ。
地の底ではどう見えていたのだろう。
展示が終わって作兵衛さんの絵をゆっくり見た。
原画では筆の動きがよくわかる。
みずみずしい色彩だった。
自分の体験をこんなふうに素晴らしい絵に変換できること。
それはまさに人間の力だと思った。
作兵衛さんがこの世界に存在して絵を描いたこと、そのことを信じて彫刻をつくっていこう。
そして、最後になりましたが良い展示のためには無理をも通す真武さんに感謝を伝えたいです。
この展示は私にとって特別なものになりました。ありがとうございました。